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未来屋古書店  作者: 倉木元貴


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工房の木屑 第3話

 知らない工房だった。だが同時に、どこか懐かしさがあった。壁は今の工房よりも少し狭く、天井も低い。だが置かれている道具は手入れが行き届き、床には新しい木屑が柔らかく散っていた。使われている場所の空気だった。


「……ここは……」


 男は呟いた。自分の記憶には存在しない。だが、目の奥が熱を帯びる。この場所を、自分は知っている。まだ辿り着いていないだけで、知っている。


 幻影の中の自分は、年を取っていた。髪には白いものが混じり、背もわずかに丸い。だがその手は、生きていた。木に触れる指先に、迷いがなかった。


 ゆっくりと、鑿を当てる。


 削る。


 木屑が、音もなく落ちる。


 その一連の動きに、恐れはなかった。失敗を避けようとする硬さもない。ただ、木の形を探り、従っている。


 男は息を止めた。


 思い出した。


 昔は、自分もこうだった。


 削ることが怖くなかった。失敗することより、形を見つけることのほうが大切だった。


「どうして……」


 声が漏れる。


 あの日、自分は壊れたはずだった。たった一度の失敗で、すべてを失った気がした。自分の手を信じられなくなった。


 なのに――削っている。


 そのときだった。


「先生」


 後ろから声がした。


 若い声だった。


 振り返った先に、一人の青年が立っている。作業着姿で、まだ新品の匂いが残っていそうな若者だった。


「この部分なんですが……うまくいかなくて」


 青年は木片を差し出した。


 幻影の中の自分はそれを受け取り、しばらく何も言わずに見つめた。指でなぞり、重さを確かめる。


「失敗してるな」


 男の心臓が強く打った。


 かつて、自分が最も恐れていた言葉。


 青年の肩がわずかに下がる。


「……すみません」


 その声は小さかった。


 だが幻影の中の自分は、続けて言った。


「だが、いい失敗だ」


 青年が顔を上げる。


「……いい失敗?」


「ああ」


 穏やかな声だった。


「迷った跡がある」


 青年は息を呑んだ。


「失敗はな、迷った証だ。考えた証だ」


 男は目を見開いた。


 そんなふうに、考えたことはなかった。


 失敗は、否定するものだった。消すべきものだった。


 だが――


「何も考えずに作ったものは、失敗すら残らない」


 幻影の中の自分は言った。


「だがこれは違う。お前は形を探した。その途中で間違えただけだ」


 青年は木片を見つめている。


「……直せますか」


 震える声だった。


 幻影の中の自分は頷いた。


「直せる」


 そして、こう続けた。


「失敗はな、終わりじゃない」


 静かに。


「次の形を教えてくれるものだ」


 男の胸が、強く締め付けられた。


 それは――自分が最も欲しかった言葉だった。


 あの日の自分に、誰かが言ってほしかった言葉だった。


 青年の目に、光が戻る。


「……はい」


 強く頷いた。


 幻影の中の自分は、木片を返す。


「やってみろ」


「はい」


 青年は作業台へ向かう。その背中は、先ほどよりもまっすぐだった。


 幻影の中の自分は、その背を見守っている。


 誇りを失った男ではなかった。


 誇りを――取り戻した男だった。


「……俺なのか……」


 信じられなかった。


 こんな未来が、本当にあるのか。


 失敗した自分に。


 終わったと思った自分に。


 そのとき、幻影の中の自分が、ふと顔を上げた。


 そして――


 まっすぐ、こちらを見た。


 男の呼吸が止まった。


 幻影の中の自分は、確かにこちらを見ていた。偶然ではなかった。視線が合っている。男は動けなかった。息をすることすら忘れたように、ただ立ち尽くした。


「……」


 声は出なかった。


 幻影の中の自分が、ゆっくりと口を開く。


「削れなくなったか」


 その言葉は静かだった。責める響きはなかった。だが逃げ場もなかった。


 男の胸が痛んだ。


 答えられない。答える資格がないと思った。


 幻影の中の自分は、視線を逸らさなかった。


「怖くなったんだな」


 図星だった。


 男の指先が震えた。木に触れることが怖くなった。削る瞬間、また壊すのではないかと思ってしまう。形を生み出すはずの手が、形を壊したあの日から。


「……ああ」


 ようやく声が出た。


「怖い」


 認めた瞬間、胸の奥に溜まっていた何かが揺れた。


「また、失敗するのが怖い」


 幻影の中の自分は、少しだけ目を細めた。


「失敗したな」


「……した」


「壊したな」


「……壊した」


 言葉にするたび、胸が抉られるようだった。


 だが幻影の中の自分は、静かに頷いただけだった。


「それでいい」


 男は顔を上げた。


「……いい?」


「失敗したことを、なかったことにするな」


 その声は低く、確かだった。


「失敗は、お前の手が作ったものだ」


 男の喉が詰まる。


「逃げるな」


 厳しい言葉だった。だが不思議と、恐怖はなかった。


「失敗した手はな、もう一度削るためにある」


 幻影の中の自分は、鑿を持ち上げた。


「この手も、同じだ」


 その手には、傷があった。小さな傷。長年木を削り続けた者の手だった。


「何度も失敗した」


 静かに言う。


「何度も壊した」


 男は見つめた。


「それでも削った」


 なぜ、と聞きたかった。


 幻影の中の自分が答える。


「削らなければ、何も残らないからだ」


 その一言が、胸の奥に落ちた。


 削らなければ、失敗もしない。だが同時に、何も生まれない。


「お前は、まだここにいる」


 幻影の中の自分が言う。


「終わった人間は、ここには立てない」


 男の視界が滲んだ。


「……俺は……」


 終わったと思っていた。


 だが違うのか。


「削りたいか」


 その問いに、心臓が跳ねた。


 削りたい。


 その言葉が、胸の奥から浮かび上がる。


 怖い。


 それでも――


「……削りたい」


 震える声だった。


 幻影の中の自分が、微かに笑った。


「なら削れ」


 短い言葉だった。


 だが、それだけで十分だった。


「失敗してもいい」


 男は目を見開いた。


「また失敗してもいい」


 許された気がした。


「その失敗が、お前の形になる」


 光が強くなり始めた。


 幻影が崩れていく。


 男は思わず手を伸ばす。


「待ってくれ」


 まだ聞きたいことがあった。


 だが幻影の中の自分は、最後にこう言った。


「大丈夫だ」


 穏やかに。


「お前は、まだ作れる」


 光が消えた。


 気づけば、男は古書店に立っていた。本は手の中にあった。だが重さが違って感じた。まるで、自分の手そのもののように。

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