工房の木屑 第2話
「……ある、って……」
男は思わず聞き返していた。喉がわずかに乾いている。
老人は、何でもないことのように頷いた。
「あなたの失敗は、すでに記されています」
静かな声だったが、その言葉は男の胸の奥に重く沈んだ。
「そんなはずは……」
否定しようとして、言葉が途切れる。
老人は立ち上がった。椅子がきしむ音が小さく響く。三毛猫がその動きを目で追った。老人は本棚の間へ歩いていく。迷いのない足取りだった。まるで最初から場所が分かっているかのように、ある一点で足を止める。
指先が、一冊の背表紙に触れた。
男は息を呑んだ。
老人はその本をゆっくりと引き抜き、胸に抱えて戻ってきた。
「……これです」
カウンターの上に本が置かれる。どさり、と鈍い音。
男は動けなかった。
表紙を見る。
何も書かれていない。題名も、名前も。ただ、擦り切れた革だけがあった。
「開いてみなさい」
男はすぐには動けなかった。開けば、何かを認めてしまう気がした。だが目を逸らすこともできない。やがて、震える指で表紙に触れた。冷たいはずの革は、なぜか温もりを帯びていた。
ゆっくりと、開く。紙の擦れる音がやけに大きく聞こえた。最初のページ。そこに書かれていた。
『工房の木屑が、床に散らばっている』
男の呼吸が止まる。それは、今日の光景だった。
文字を追う。
『男は未完成の椅子の前で立ち尽くしている』
指先が震えた。
『背もたれは歪み、脚は揃っていない』
「……」
声が出なかった。
書かれている。すべてが。今日、自分が見たもの。感じたもの。
『自分の手を、信じられなくなっていた』
「やめろ……」
思わず呟く。
だが文字は消えない。
そこにある。
男はページをめくった。
『若い夫婦が笑っていた』
胸の奥が痛んだ。
『一生使える椅子を、お願いします』
呼吸が浅くなる。
『任せてください、と男は答えた』
「やめてくれ……」
『だが、その約束は――』
男は本を閉じた。
強く。
呼吸が乱れていた。
「……なんなんだ、これは」
声が震える。
老人は静かに答えた。
「あなたの失敗です」
「違う……」
男は首を振る。
「こんなもの……ただの……」
言葉が続かない。
これは作り物ではない。これは偶然ではない。これは――自分だ。
「……どうして」
絞り出すように言う。
老人はしばらく男を見つめ、それから言った。
「続きを、見ますか」
男の心臓が強く打つ。
続きを見れば、何が書かれているのか。知りたくない。だが――知りたい。
男は唾を飲み込んだ。
そして、再び本に手を伸ばした。
男はゆっくりと本を開いた。
先ほどの続きのページ。文字はすでにそこにあった。いや――違う。男が見つめている間にも、インクが滲むように、新しい文字が浮かび上がってくる。
『男は、本から目を逸らせないでいる』
男の背筋に冷たいものが走った。
『知ることを恐れながら、同時に望んでいる』
「……っ」
思わず顔を上げる。
老人は何も言わず、ただ見守っていた。三毛猫だけが、静かに尻尾を揺らしている。
男は視線を戻した。
次の瞬間――ページの奥が、淡く光った。
男は目を見開いた。
光は文字の上を滑り、やがてページ全体に広がる。そして――景色が、現れた。
「……なに……?」
それは、工房だった。見慣れた自分の工房。作業台。道具。窓。そして――自分自身。
男は息を呑んだ。
幻影の中の自分は、椅子の前に座っていた。今より少し前の時間。まだ歪みに気づく前の自分だ。
鑿を握り、木に向かっている。
その手は、迷いなく動いていた。
削る音。木屑が舞う。
男は、その光景に見入った。
「……違う」
呟きが漏れる。
違う。
こんなふうに削れていたはずがない。
こんなふうに――
自信に満ちてなど、いなかった。
だが幻影の中の自分は、確かにそうしていた。呼吸は安定し、動きに淀みがない。木の形を信じ、疑っていない手だった。
やがて、その手が止まる。男は知っている。次の瞬間を。ほんのわずか、刃を入れる角度がずれる。それだけで、すべてが狂う。
男は思わず叫んだ。
「やめろ……!」
だが、止まらない。刃が入る。わずかに深く。ほんの数ミリ。それだけで、曲線は歪んだ。
取り返しのつかない傷。幻影の中の自分の手が止まる。空気が凍る。
男はその顔を見た。
見開かれた目。理解が追いつかない表情。やがて――恐怖が、浮かぶ。
「……ああ……」
男の口から、かすれた声が漏れた。
それは、あの日の自分だった。失敗を理解した瞬間の、自分。
幻影の中の自分は、ゆっくりと鑿を置いた。
そして、自分の手を見つめる。震えていた。
「……違う……」
男は呟いた。
「俺は……こんな……」
だが否定できない。
それは紛れもなく、自分だった。
幻影の中の自分が、椅子から手を離す。その仕草には、明らかな諦めがあった。
男の胸が、強く締め付けられる。
見ていられなかった。だが、目を逸らせない。
そのとき――幻影が、揺れた。光が、変わる。
「……?」
男は息を止めた。
景色が、続いている。本が映し出したのは、男の“記録”ではなく、男の“内部構造”だった。
だが――それは、知らない光景だった。
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