工房の木屑 第1話
木屑の匂いが、工房いっぱいに満ちていた。
削りたての木の、乾いた甘さ。長い年月、その匂いは男の誇りだった。刃が繊維を断つときの微かな震え、床に降り積もる淡い欠片。それらはすべて、自分が何かを生み出している証だった。
――そのはずだった。
男は作業台の前で立ち尽くしていた。手にした鑿が、ぴたりと止まっている。
目の前には、未完成の椅子。
背もたれの曲線は、わずかに歪んでいた。脚の長さも、ほんの数ミリ揃っていない。
たった数ミリ。
だがその数ミリが、職人にとっては致命的だった。
「……駄目だな」
呟いた声は、掠れていた。
指先で背もたれをなぞる。滑らかなはずの木肌が、今日はやけにざらついて感じられる。それは木のせいではない。自分の心が荒れているせいだと、男は分かっていた。
依頼主の顔が浮かぶ。
若い夫婦だった。新築の家に置く椅子を注文しに来たとき、二人は並んで笑っていた。
「一生使える椅子を、お願いします」
その言葉に、男は胸を張って答えた。
「任せてください」
迷いはなかった。自分の手なら応えられると、確信していた。
だが――
この有様だ。
男は鑿を作業台に置いた。金属が木に触れ、乾いた音を立てる。その音が、やけに大きく響いた。
いつからだろう。
自分の手を信じられなくなったのは。
昔は違った。木に触れれば、形が見えた。どこを削ればいいか、どこを残すべきか、迷うことはなかった。木と対話するように、自然に手が動いた。
だが今は違う。
削る前に、恐れが先に立つ。
間違えるのではないか。取り返しのつかない傷をつけるのではないか。その恐怖が指先を固くする。固くなった手は、さらに誤りを生む。
悪循環だった。
男は椅子から手を離した。工房の中は静まり返っている。
窓の外では、雨が降っていた。いつから降り始めたのか、気づかなかった。雨粒がガラスを打ち、一定のリズムを刻んでいる。
男は上着を手に取った。
ここにいるのが、耐えられなかった。
未完成の椅子が、暗がりの中で立っている。それはまるで、自分自身のようだった。形になりきれず、誇りを失い、ただそこにあるだけの存在。
「……終わりかもしれないな」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
工房を出ると、冷たい空気が頬を打った。雨は思ったより強い。すぐに髪も服も濡れたが、気にならなかった。
男は歩き出した。
行き先はない。ただ、あの場所から離れたかった。
歩きながら、自分の手を見る。長年使い続けてきた手。節くれ立ち、傷だらけで、それでも誇りだった手。
だが今は、何も生み出せない手のように思えた。
そのときだった。
前方に、ぼんやりとした光が見えたのは。
雨の中に滲む、橙色の灯り。こんな場所に店などあっただろうか。
男は足を止める。
見覚えのない光だった。だが、不思議と目を離せない。灯りは静かに揺れている。まるで、呼んでいるように。
気づけば、男はその光に向かって歩いていた。
近づくにつれ、それが古びた店だと分かる。軒先に小さな木の看板が下がっている。雨に濡れた文字を、男は読んだ。
「未来屋古書店……」
聞いたことのない名前だ。この街に長く住んでいるが、こんな店は知らない。
扉の前で、男は立ち止まった。
中からは、柔らかな光が漏れている。温もりを含んだ、静かな灯り。
帰るべきだ。
そう思う。
だが、足は動かない。
胸の奥で、何かが微かに揺れていた。諦めとも、期待ともつかない感情。
男はゆっくりと手を伸ばし、取っ手に触れた。
冷たいはずの金属は、なぜかほんのりと温かかった。
小さく息を吸う。
そして――扉を開けた。
鈴の音が、静かに鳴った。
鈴の音は、小さかった。
だがその音は、男の胸の奥まで静かに届いた。
「……いらっしゃい」
低く、穏やかな声がした。
男は顔を上げた。
店の奥、古びた木のカウンターの向こうに、老人が座っていた。白髪は肩のあたりまで伸び、深い皺が刻まれている。その目は不思議なほど澄んでいて、男をまっすぐに見ていた。
その視線に、なぜか居心地の悪さはなかった。
むしろ――見透かされているようでいて、責められてはいない目だった。
店の中は、思っていたより広かった。壁一面に本棚が並び、古びた本が隙間なく収められている。天井からはランプが吊るされ、柔らかな橙色の光を落としていた。
紙の匂いがする。
長い時間を閉じ込めたような、静かな匂いだった。
ふと、視線を感じた。
カウンターの上に、一匹の三毛猫がいた。丸くなっていたが、男に気づくとゆっくりと顔を上げた。
金色の目。
じっと男を見ている。
「……」
男は小さく息を吐いた。
なぜ自分はここに入ったのだろう。
本を買うつもりなどない。そもそも、最近は本など読んでいない。
帰ろうか――そう思ったときだった。
「あなたは、職人ですね」
老人が言った。
男は息を止めた。
「……どうして」
思わず口に出していた。
老人は微かに笑った。
「手を見れば分かります」
男は反射的に手を握った。
節くれ立った指。無数の細かな傷。長い年月、道具を握り続けてきた手。
隠すことなどできない手だった。
「……家具を、作っています」
男は答えていた。
なぜ答えたのか、自分でも分からなかった。
老人は静かに頷いた。
「そうでしょうとも」
三毛猫が、ふっと目を細めた。
まるで納得したように。
沈黙が落ちた。
男は店の中を見回した。本棚。本。本。本。
どれも古びている。だが、不思議と汚れてはいなかった。丁寧に扱われてきたことが分かる。
「……古書店、なんですね」
「ええ」
老人は答えた。
「ここは、古書店です」
その言葉は正しいはずなのに、なぜか男の胸に引っかかった。
ただの古書店ではない――そんな気がした。
老人は続けた。
「そして同時に」
そこで一度、言葉を切る。
男は無意識に、次の言葉を待っていた。
「失敗を収める店でもあります」
「……失敗?」
男は眉をひそめた。
意味が分からなかった。
老人は男を見た。
その目は、静かだった。
「人は誰しも、失敗を抱えて生きています」
穏やかな声だった。
「忘れたい失敗。やり直したい失敗。あるいは、自分を縛り続ける失敗」
男の胸が、わずかに軋んだ。
老人は続ける。
「ここには、そうした失敗が収められています」
男は思わず笑いそうになった。
何を言っているのだ、この老人は。
失敗が、本になるとでもいうのか。
馬鹿げている。
そう思うのに――
なぜか、笑えなかった。
「……私の失敗も、ですか」
気づけば、そう聞いていた。
老人は、静かに頷いた。
「ええ」
そして、こう言った。
「すでに、この店にありますよ」
男の心臓が、大きく鳴った。
店の奥で、どこかの本が――
小さく、音を立てた気がした。
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