表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
未来屋古書店  作者: 倉木元貴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
32/49

雨上がりの夜 最終話

 数日後。

 男は、社内の掲示板の前に立っていた。人事異動の紙が貼り出され、周囲では小さなざわめきが起きている。期待と不安、安堵と落胆。いくつもの感情が、紙一枚に吸い寄せられていた。


 自分の名前を探す。

 あった。だが、肩書きは変わっていた。


「……課長補佐」


 降格。

 左遷とまではいかないが、明確な処分だった。


 胸の奥に、鈍い痛みが走る。

 分かっていた。選んだ時点で、覚悟はしていた。それでも、現実は軽くない。


「やっぱり、そうなるよな」


 背後から声がした。

 振り返ると、同僚の管理職が立っている。


「無理するなよ。正義感だけで会社は回らない」


 男は、曖昧に笑った。


「そうかもしれないな」


 否定はしなかった。

 正義でも、正解でもない。ただ、選んだだけだ。


 自席に戻る。

 机の位置は、少し端になった。窓からの景色も、角度が違う。見える空が、狭くなった気がした。


 だが、そこに座っていた若い社員が、慌てて立ち上がる。


「あ……課長、いえ……」


 言い淀む部下に、男は首を振った。


「呼び方は、好きにしろ。やることは変わらない」


 部下は、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます。自分、必ず取り返します」


 男は、静かに言った。


「取り返さなくていい。積み上げろ」


 その言葉に、部下は目を見開き、やがて強く頷いた。


 仕事は増えた。

 評価は下がった。

 会議で意見が通らないことも増えた。


 それでも、男は席を立ち続けた。

 資料を読み、赤を入れ、説明し、聞き、待った。


 ある夜。

 残業のフロアで、部下が声を上げる。


「……通りました」


 小さな声。

 だが、確かな報告。

 男は、画面を見て頷いた。


「そうか。次は、何が課題だ」


 拍手はない。

 評価表も変わらない。

 それでも、男は知っていた。これは、続いている未来だ。

 ふと、ガラスに映る自分の顔を見る。疲れている。だが、逃げてはいない。


「……責任ってのは」


 小さく呟く。


「罰じゃなかったな」


 誰に聞かせるでもなく、男は仕事を続けた。

 その夜、男はいつもより遅く会社を出た。

 空気は澄み、昼間の熱を洗い流したような静けさが街に広がっている。アスファルトはまだ湿っており、街灯の光を淡く映していた。


「雨、上がったんだな」


 誰にともなく呟く。

 傘を持つ必要はなかった。代わりに、胸の奥に残る重みを抱えたまま、男は歩いた。


 角を曲がった瞬間、足が止まる。


 ――あった。


 見覚えのある、柔らかな灯り。

 古びた看板。未来屋古書店。


「……またか」


 驚きは、なかった。

 必要な時に現れる。そういう場所だと、もう理解していた。


 扉を開けると、鈴の音が静かに鳴る。

 店内は変わらない。古書の匂い。ランプの光。棚の奥で丸くなって眠る三毛猫。


 カウンターの向こうに、老人が立っていた。


「来たな。続けている顔だ」


 男は、小さく笑った。


「報われてはいません。肩書きも、評価も」


「知っている」


 老人は、頷く。


「それでも、続けている」


 男は、棚に並ぶ本を見渡す。

 そこには、誰かの失敗の記録が詰まっている。途中で終わったものも、続いているものも。



「責任って……」

 男は、言葉を探しながら続けた。


「終わらせることだと思ってました。でも今は、終われないことだと分かります」


 老人は、静かに微笑んだ。


「それでいい。責任は、称号じゃない。生き方だ」


 棚の一冊が、音もなく開く。

 そこに映るのは、少し先の未来。会議室で発言する部下。その背後で、資料を確認する男。名は呼ばれない。だが、確かに支えている姿。


 男は、目を逸らさなかった。


「これでいい。これが、俺の選んだ続きだ」


 老人は、本を閉じる。


「なら、この店はもう用済みだな」


 三毛猫が、ふと目を開け、男を一瞥する。

 その瞳には、何の評価もなかった。ただ、見ているだけだ。


 男は、深く一礼した。


「……ありがとうございました」


「礼はいらん。選んだのは、君だ」


 扉を開ける。

 夜の空気が、優しく頬を撫でた。


 振り返ると、古書店はもうなかった。

 あるのは、雨上がりの街路と、続いていく時間だけ。


 男は、歩き出す。


 責任は、罰ではない。

 終わらせるための言葉でもない。


 誰かの成長を見届けるまで、

 自分自身が変わり続けるまで、

 静かに、名もなく、続けていくこと。


 濡れた路面に映る街灯が、一つ、揺れた。


 未来は、まだ書き途中だった。

 歩きながら、男はふと空を見上げた。雲の切れ間から、わずかな星が覗いている。こんな夜に星を探す余裕が、自分に残っていたことに気づき、少しだけ肩の力が抜けた。


 信号待ちの横断歩道で、スーツ姿の若者たちが笑いながら通り過ぎていく。彼らの会話の内容は聞き取れない。それでも、未来へ向かう足取りだけは、妙に眩しく見えた。


 男は、胸ポケットに入れたままの社員証に触れる。肩書きは変わった。だが、そこに刻まれた名前だけは、何一つ揺らいでいない。


「続けるってのは、案外悪くない」


 呟きは、夜風に溶けていった。


 会社のビルは遠くに小さくなり、街の灯りがゆっくりと彼の背中を押す。誰に見られるでもなく、誰に褒められるでもなく、それでも歩みは止まらない。


 責任とは、背負うものではなく、選び続ける姿勢そのものだ。

 その答えを胸に、男は家路へと向かった。明日もまた、同じ席に座り、同じように積み上げていくのだろう。だが、その繰り返しの中にこそ、確かな未来が形を持ちはじめている。

おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ