雨上がりの夜 第4話
光が引いていくと、古書店の静けさが戻ってきた。
古書店の空気は、まるで深い井戸の底に沈んだように静まり返っていた。棚の隙間を縫うように漂う埃が、光を失った空間でゆっくりと落ちていく。紙の匂いは湿り気を帯び、古いインクが眠りから覚めたように微かに香った。男は呼吸を忘れたまま、ただその場に立ち尽くす。
耳を澄ませば、遠くで時計の針がひとつ進む音がした。世界がわずかに軋み、何かが静かに位置を変えたような気がした。先ほどまで自分を飲み込もうとしていた影は消えたが、代わりに、言葉にならない重さだけが残っていた。
「……続ける、か」
その言葉を、口の中で転がす。
これまでの彼にとって、責任とは「終わらせること」だった。謝罪し、処分を受け、立場を失い、そこで一区切りをつける。それが責任の取り方だと、どこかで思い込んでいた。
「部下のミスは、管理職の責任です」
会議室で言われた言葉が蘇る。
あの時、誰も「その後」を語らなかった。罰の話はあっても、育て直す話はなかった。自分自身も、考えなかった。
男は拳を握る。
「俺は……逃げようとしてたのか」
左遷されれば、部下と距離ができる。
責任の中心から外れる。
もう二度と、あの失敗と向き合わなくて済む。
それは、楽だった。
「でも、それで何が残る?」
答えは、もう見えていた。
幻影の中の未来の自分は、罰を受け続けてはいなかった。ただ、名もなく、評価もなく、同じ場所に立ち続けていた。
老人が、棚から一冊の古書を抜き取る。
表紙は擦り切れ、題名は読めない。
「これはな、途中で書くのをやめた物語だ。主人公が失敗して、そこで終わった」
老人は、ページを開く。
そこには、未完成の文章が途切れ途切れに残っている。
「読者は、続きを知らない。だが、本当は──続きを生きる者がいる」
老人は、本を閉じた。
「責任は、終わらせる権利じゃない。続ける義務だ」
その言葉が、男の胸に深く沈んだ。
反論は浮かばなかった。否定もできなかった。ただ、重かった。
「続けるって……。傷つく部下も、俺自身も、また失敗するかもしれない」
老人は頷く。
「そうだ。それでも、だ」
沈黙。
古書店のランプが、静かに揺れる。
男は、目を閉じた。
謝罪する部下の背中。震える声。
自分の沈黙。
「……俺は、あの時。何も言えなかった」
目を開ける。
「罰を受けることで、終わらせたつもりだった。でも、あいつは……その後も会社に残る」
声が、わずかに震えた。
「俺が逃げたら、あいつは一人だ」
その瞬間、古書店の空気が変わった。
棚の奥で、本が一冊、静かに開く。
選択肢は、もう示されている。
本が開いた瞬間、古書店の床が静かに沈み込んだ。
足元の感触が変わり、男は思わず一歩踏み出す。次の瞬間、視界が反転し、見慣れた光景が広がっていた。
夜のオフィス。
視界が反転した瞬間、古書店の匂いも、紙のざらつきも、すべてが遠ざかっていく。
足元の床が沈む感覚は、まるで深い水面に落ちていくようだった。
蛍光灯の白い光が、暗闇を無造作に切り裂く。乾いた書類の匂い、機械の微かな唸り、夜のオフィス特有の無機質な静けさが、現実へと引き戻す。
男は思わず息を呑んだ。
自分の席。
机の上には、例の報告書と、処分案が並んでいる。
「……戻ったのか」
時計を見る。針は、あの夜と同じ時刻を指していた。
すべては、まだ起きていない。左遷も、決定していない。
ドアの向こうで、足音が止まる。
ノック。
「失礼します」
部下の声だった。
あの失敗を起こした若い社員。少し掠れた声。覚悟を決めた者の声。
「入れ」
ドアが開く。
部下は深く頭を下げたまま、動かない。
「……本当に、申し訳ありませんでした。自分の判断ミスです」
男は、すぐに答えなかった。
以前の自分なら、沈黙したまま、形式的な言葉を返していただろう。
だが今は違う。
古書店で見た未来が、背中を押していた。
「顔を上げろ」
部下が、恐る恐る顔を上げる。目の奥に、怯えと諦めが混じっていた。
「今回の責任は、俺にある。判断を任せきりにした。俺も確認を怠った」
部下の目が、わずかに見開かれる。
「……課長」
「だから」
男は、言葉を区切る。
「一緒に背負う。終わらせない」
沈黙が落ちる。
部下は、唇を噛みしめ、やがて声を絞り出した。
「……もう一度、やり直しても、いいですか」
男は、はっきりと頷いた。
「ああ。失敗した分だけ、考えろ。俺は、逃げない」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが外れた。
重荷は消えていない。だが、形が変わった。
会議室。
上司たちの前で、男は立っていた。
「管理責任は、私にあります。処分は受けます。ですが、育成からは外れません」
空気が凍る。
誰かが眉をひそめ、誰かが視線を逸らす。
「……それは、都合が良すぎないか」
男は、真っ直ぐに答えた。
「いいえ。最も重い選択です」
その場で、結論は出なかった。
だが、男は初めて、逃げずに立っていた。
夜。
オフィスを出ると、雨はすっかり上がっていた。
濡れた路面に、街灯が映る。
男は立ち止まり、深く息を吸った。
「……続けるんだな、俺は」
その声は、もう震えていなかった。
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