雨上がりの夜 第3話
古書の光が、いったん弱まった。
次の瞬間、風景が大きく揺らぐ。蛍光灯の白い光は溶け、代わりに柔らかな昼の光が差し込んだ。男は、反射的に目を細める。
そこは、見覚えのないオフィスだった。
壁は明るく、机の配置も違う。だが、空気の張りつめ方だけは、よく知っている。仕事の現場だ。
「じゃあ、この判断でいきましょう」
聞き覚えのある声がした。男は、はっとして振り向く。
そこに立っていたのは──かつての部下だった。
背筋を伸ばし、落ち着いた表情で数人の社員に説明している。年齢は、あの頃より少し上だろう。だが、面影ははっきりと残っている。声には迷いがなく、言葉には確信があった。
「リスクはあります。ですが、確認手順を一つ増やせば、防げます。失敗した場合の責任は、私が取ります」
その言葉に、男の胸が強く打たれた。
責任を、取る。
かつて自分が、重さだけで語っていた言葉を、彼は今、別の意味で使っている。
会議が終わり、人が散っていく。
部下──いや、もはや部下ではない彼のもとへ、若い社員が近づいた。
「さっきの件、ありがとうございます。正直、怖かったんです」
彼は、小さく笑った。
「怖くない判断なんて、ないよ。大事なのは、一人で抱えないことだ」
その一言に、男は息を呑む。かつて、自分が言えなかった言葉だった。
幻影は続く。
夜のオフィス。彼は一人残り、資料を見直している。画面の端には、過去の失敗に関する記録が表示されていた。
「……同じことは、繰り返さない」
静かな声。
決意でも、誓いでもない。ただの事実確認のような口調だった。
男は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……育ってる」
それは、喜びでもあり、同時に痛みでもあった。彼は、自分がいなくても成長している。だが、それは本当に「いなくても」だったのか。
幻影が、もう一度揺れる。
今度は、さらに未来の光景だった。
研修室。ホワイトボードの前に立つ彼。その前には、数名の若い社員が座っている。
「失敗した時、一番怖いのは何だと思う? 怒られること? 評価が下がること?」
彼は、少し間を置いてから続けた。
「違う。誰にも相談できなくなることだ」
その言葉が、男の胸を貫いた。
幻影の中で、彼は語り続ける。
「上司の役割は、失敗をなかったことにすることじゃない。失敗しても、戻ってこられる場所を残すことだ」
男は、思わず目を閉じた。その言葉は、痛いほど正しかった。
古書の光が、静かに収束していく。
ページが、次へ進もうとしている。
老人の声が、低く響いた。
「さて。ここで、君自身の姿も見ておこうか」
男は、ゆっくりと目を開けた。覚悟は、できていた。
光が落ち着くと、男は自分の足元を見下ろしていた。
見慣れた革靴。だが、磨かれていない。スーツもくたびれている。鏡代わりのガラスに映る自分は、どこか疲れ切った中年の男だった。
「……俺?」
返事はない。ただ、風景だけがゆっくりと動き出す。
そこは、地方の小さなオフィスだった。
派手さはない。看板も目立たない。窓から見えるのは、低い建物と電線だけ。男は、胸の奥で察した。
──左遷後の未来。
机に座る自分は、パソコンの画面を見つめている。
資料は、部下のものだ。細かな修正が、赤字でびっしりと入っている。だが、名前はない。誰の仕事か、外からは分からない。
「ここ、少し分かりにくいな。数字の根拠、もう一行足そう」
静かな独り言。
誰に聞かせるでもない。
ドアがノックされる。
「失礼します」
若い社員が、恐る恐る顔を出す。
男は顔を上げ、穏やかに頷いた。
「どうした」
「この資料なんですが……正直、自信がなくて」
男は、椅子を引いて立ち上がる。
画面を覗き込み、ゆっくりと説明を始めた。
「ここは合ってる。でも、この部分は、もう少し噛み砕ける。相手が何を不安に思うか、想像してみよう」
若い社員は、何度も頷く。
「ありがとうございます。忙しいのに、すみません」
男は、小さく首を振った。
「忙しいのは、君が成長している証拠だ。俺の仕事は、それを邪魔しないこと」
その言葉に、男は息を止めた。
幻影の中の自分は、かつてよりも肩書きが低い。権限もない。表彰されることもない。
それでも、続けている。
場面が切り替わる。
会議室の隅。発言権の少ない席。男は、資料を静かに配り、議論を聞いている。
「……その案、リスクは?」
誰かが尋ねる。
男は、一瞬だけ迷い、それから口を開いた。
「一つあります。ただし、回避策もあります」
視線が集まる。
だが、称賛はない。拍手もない。
会議は、そのまま進んでいく。
幻影の自分は、何も言わず、メモを取り続ける。
「……報われないな」
現実の男が、呟く。
老人の声が、すぐ近くで応えた。
「報いを求めていたか?」
男は、言葉に詰まる。
幻影の中で、夜。
男は一人、オフィスを出る。外は雨上がりだった。濡れたアスファルトが、街灯を反射している。
男は立ち止まり、空を見上げる。
「……今日も、誰かが前に進んだ。それでいい」
その表情に、後悔はあった。
だが、諦めはなかった。
古書の光が、再び強まる。
選択の時が、近づいている。
老人が、静かに告げた。
「責任とは、ここまでを引き受ける覚悟だ。さて、君はどうする?」
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




