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未来屋古書店  作者: 倉木元貴


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雨上がりの夜 第2話

 老人の指が触れた瞬間、棚全体がわずかに軋んだ。木が鳴る音ではない。紙が、同時に息を吸ったような音だった。男は思わず背筋を伸ばす。未来屋古書店の空気が、静かに、しかし確実に変質していくのを肌で感じた。


 一冊の古書が、棚から自ら滑り落ちる。

 床に落ちる寸前、ふっと止まり、男の前に浮かび上がった。


「……俺の、か」


 問いは、確認に近かった。

 老人は肯定も否定もせず、ただ言う。


「開いてみるといい」


 男は一瞬ためらい、両手でその本を受け取った。重い。厚み以上に、過去の沈殿が詰まっている重さだ。表紙には題名がない。代わりに、滲んだような文字が浮かび上がってくる。


 ――責任者。


 その一語に、胸が締めつけられる。

 ページをめくると、紙面が白く揺れ、次の瞬間、視界が歪んだ。


 音が戻る。

 蛍光灯の低い唸り。キーボードを叩く音。プリンターの作動音。見覚えのあるオフィスだ。自分の職場。失敗が起きた、あの日。


 会議室の隅で、部下が立っている。

 顔色は悪く、手元の資料を強く握りしめている。


「……申し訳ありません」


 震える声。

 男は、幻影の中の自分を見た。腕を組み、表情を消し、ただ前を見ている。


 あの日、自分は何を考えていた?

 部下を守る言葉を探していたのか。

 それとも、事態がこれ以上悪化しないよう、沈黙を選んだのか。


 幻影は容赦なく進む。


「確認は? なぜ報告が遅れた? 管理体制はどうなっている?」


 矢継ぎ早の質問。

 部下の声は、次第に小さくなっていく。


「……すみません。……自分の判断です」


 その時だ。

 誰かが言った。


「上司は?」


 空気が、一瞬で凍りつく。

 全員の視線が、幻影の中の男に集まる。


 だが、彼は何も言わない。

 ただ、黙っていた。


 男は、現実の身体で歯を食いしばった。


「……違う。俺は、考えてた。場を荒立てるべきじゃないと。ここで感情的になれば、余計に……」


 言い訳が、喉まで込み上げる。

 だが、幻影は答えない。ただ、事実を映し続ける。


 会議が終わり、人が散っていく。

 部下は一人、椅子に座ったまま動けずにいる。


「……すみませんでした」


 誰に向けた言葉でもない。

 その背中を、幻影の中の男は、ただ見ている。


 追いかけなかった。

 声をかけなかった。

 その時間が、最も重い失敗だった。


 古書のページが、ばさりと閉じた。


 男は、息を吐くことも忘れて立ち尽くしていた。


「……俺は」


 声が、掠れる。


「責任を取るって言いながら……。何一つ、引き受けてなかった」


 老人は、静かに頷いた。


「責任を罰だと思えば、そうなる」


 その言葉が、胸に刺さる。


 まだ終わりではない。

 古書は、再び開き始めていた。

 古書のページが、今度はゆっくりとめくられていく。

 先ほどよりも音がはっきりしていた。紙が擦れる音が、男の胸の内側を直接引っ掻くように響く。嫌でも目を逸らせない。


 幻影は、会議室の外へ移った。

 廊下。白い壁。蛍光灯。業務終了後の静けさ。男は、その光景を何度も通ってきたはずなのに、今はまるで別の場所のように感じる。


 部下が、壁にもたれて立っている。

 ネクタイを緩めることもできず、背筋だけで立っている。目は伏せられ、肩が微かに震えていた。


「……課長」


 声が、聞こえた。

 幻影の中の男――過去の自分は、足を止める。


「何だ」


 その返事は、必要最低限だった。

 距離を取る声色。感情を抑えた、管理職として“正しい”声。


「すみませんでした。自分の確認不足です。どんな処分でも……」


 言葉が、途中で途切れる。

 部下は、続きを言えなかった。


 幻影の中の男は、数秒黙り込む。

 その沈黙の間に、どれほどの選択肢があっただろうか。


「今は、余計なことを言うな。会社としての判断が先だ」


 それだけを言って、背を向ける。

 足音が、廊下に響く。


 男は、その場で呻くように声を漏らした。


「……違う。俺は、守るつもりだった。感情的に寄り添えば、余計に追い詰めると思った。だから……」


 幻影は、容赦しない。

 幻影の中の部下は、男の背中を見つめ続けている。


「……課長」


 呼び止める声は、もう一度だけあった。

 だが、男は振り返らない。


 その瞬間、幻影が切り替わる。


 夜のオフィス。

 ほとんどの席が空いている。部下は一人、デスクに座り、パソコンの画面を見つめている。文字を打ち、消し、また打つ。何度も同じ動作を繰り返している。


「……どうすればよかったんだ」


 部下の独り言が、静かな空間に落ちる。

 答える者はいない。


 男は、その姿を直視できなかった。

 胸の奥が、じわじわと締めつけられる。


「俺は……」


 声が震える。


「罰を引き受けることで……。責任を果たした気になっていた」


 上司に叱責されること。左遷されること。評価を下げられること。

 それらは確かに痛い。だが、それで終わる。だが、育成を放棄した瞬間、失敗はそこで止まらない。

 幻影の中で、部下は深夜に一人、席を立つ。

 その背中は、会議室で見た時よりも小さく見えた。


「責任とは……」


 男は呟く。


「一緒に立ち続けることだったのか」


 古書が、再び光を帯び始める。次のページへ進む合図だ。

 老人の声が、静かに響いた。


「まだ、続きがある。見届けなさい」


 男は、唇を噛み、目を逸らさなかった。

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