元医師の男 第3話
ピッ……ピッ……。
その電子音は、男の鼓膜を直接叩いた。音量は大きくない。それなのに、頭の内側で鳴っているような錯覚があった。かつて何度も聞き、そして最後に聞くことになった音。忘れようとしても、忘れられるはずのない音だった。
「やめろ……」
思わず口を突いて出た言葉は、空気に溶ける前に、黒い影に吸い込まれた。
影は店内を満たし始めていた。最初は棚の隙間から滲む程度だったものが、今では床を覆い、壁を舐め、天井から垂れ下がっている。光を遮るわけではない。それなのに、視界が暗く感じられた。
影は、形を変える。
人の輪郭に似たもの。崩れた器官のようなもの。判別できない曖昧さが、かえって恐怖を煽った。男は後ずさる。だが、床はいつの間にか硬さを失い、足が沈み込むような感触に変わっていた。
ピッ……ピッ……。
音が速くなる。
それに合わせるように、男の心拍も跳ね上がる。
「違う……これは……」
否定の言葉を探すが、何を否定すればいいのか分からない。現実か幻か、そんな区別はとっくに意味を失っていた。これは記憶だ。いや、罰だ。あるいは、その両方だ。
影の中から、声が聞こえた。
『遅かった』
低く、掠れた声。
次に、別の声が重なる。
『判断を誤った』
『医者だろう』
男は耳を塞いだ。
だが、音は止まらない。心電図の音が、声と混じり合い、ひとつの塊となって押し寄せてくる。
「俺は……俺は……」
言い訳が欲しかった。
時間がなかった。症例が特殊だった。リスクが高すぎた。どれも事実だ。だが、事実を積み重ねても、結果は一つしかない。
影が、急に濃くなった。
視界の奥に、白い光が浮かび上がる。蛍光灯だ。天井に並ぶ、病室の光。その下で、ベッドの輪郭がはっきりと形を取る。
「……やめろ……」
男の声は、ほとんど泣き声だった。
それでも幻影は容赦しない。ベッドの上に、人影が横たわる。顔はまだ見えない。それなのに、男の喉は締め付けられ、視線を逸らすことができなかった。
老人の声が、遠くで聞こえる。
「逃げても、意味はない」
その言葉は冷たいが、突き放す響きではなかった。
事実を告げる声だった。
「この店は、慰めない。忘れさせない」
影が蠢き、病室の幻影が完成する。
消毒液の匂いが鼻を刺した。男は思わず、嘔吐感を堪える。ここまで再現されるとは思っていなかった。音も、匂いも、温度も。すべてが、あの夜と同じだった。
『先生……』
声がした。
弱々しく、それでも確かに男を呼ぶ声。
男の膝が、音を立てて床に落ちた。
「……違う……これは……」
幻だと分かっている。
それでも、身体が先に反応してしまう。手が震え、視界が滲む。ここで何を言っても、何を叫んでも、過去は変わらない。
ピ――――。
心電図の音が、長く伸びた。
その瞬間、男の中で、何かが切れた。
長く伸びた電子音が、空間を支配していた。
耳を塞いでも消えない。音は空気を震わせるのではなく、男の内側から鳴っている。心臓の裏側、骨の隙間、脳の奥深く。そこに直接触れてくる。
病室の幻影は、完全に出来上がっていた。
白い壁。無機質な床。冷たい蛍光灯。視界の端に、点滴スタンドの影が揺れている。男はこの光景を、何度も夢で見てきた。それなのに、今は夢よりも鮮明だった。
ベッドの上の患者が、ゆっくりと顔をこちらに向ける。
見覚えのある輪郭。髪の生え際。閉じかけた瞼。男は息を詰めた。名前が喉元まで込み上げるが、声にならない。
『先生』
患者の唇が、確かに動いた。
幻だと分かっている。それでも、その声は現実と区別がつかなかった。
「……すまない」
反射的に言葉が漏れる。
謝罪は遅すぎる。意味がない。それでも言わずにはいられなかった。
幻影は止まらない。
時間が巻き戻る。モニターの数値が少しずつ変化していく。看護師が男を見る。判断を仰ぐ視線。焦りと期待が入り混じった、あの目だ。
『今すぐ処置をすべきですか』
声が重なる。
看護師の声。研修医の声。誰もが、男の判断を待っている。
――まだ大丈夫だ。
――リスクが高すぎる。
――様子を見る。
男の思考が、当時と同じ軌道をなぞる。
正しかったはずの判断。合理的だったはずの選択。だが、その「はず」が、結果によって粉々に砕かれている。
時間が、進む。
いや、進んでしまう。
『先生』
再び、患者が呼ぶ。
その声は、弱々しい。それでも、確かに生きようとしていた。
男は、幻影の中で一歩前に出た。
だが、足が重い。身体が、言うことを聞かない。あの夜と同じだ。決断の直前で、世界が粘土のように歪んだ感覚。
「……待て」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
患者か。過去の自分か。それとも、この幻影そのものか。
モニターが警告音を発する。
数値が崩れ始める。心拍が乱れ、血圧が落ちる。看護師が声を荒げる。
『先生、急変です』
男は、ようやく理解した。
この幻影は、責めるためだけにあるのではない。逃げ道を一つずつ潰し、選択の瞬間に立たせるためにある。
「……俺は」
声が震える。
あの時、恐れていたのは患者の死だけではない。自分の判断が間違っているかもしれないという恐怖だ。責任を負う覚悟が、足りなかった。
『結果が、すべてだ』
影の声が、重なる。
その言葉に、男の胸が締め付けられる。
ピ――――。
再び、長い電子音。
患者の身体から、力が抜ける。看護師が声を失い、時間が止まる。男は、その光景を、ただ見つめるしかなかった。
幻影が、静かに揺らぐ。
患者の顔が、男をまっすぐに見つめていた。
『忘れるな』
その一言だけを残し、病室は闇に溶けていく。
男は、床に崩れ落ちた。
肩が大きく上下し、呼吸が乱れる。涙が出ているのかどうかも分からない。ただ、胸の奥が空洞になったようだった。
黒い影は、まだ消えていない。
だが、その圧は、先ほどよりもわずかに弱まっていた。老人の声が、近くで響く。
「ここからだ」
男は、顔を上げた。
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