表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
未来屋古書店  作者: 倉木元貴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
26/49

元医師の男 第4話

 床に膝をついたまま、男は動けずにいた。

 身体が重い。骨と内臓が、別々の重力に引かれているような感覚。呼吸をするたび、胸の奥が軋む。


「ここから……?」


言葉を吐き出した瞬間、自分の声が自分のものではないように聞こえた。

 胸の奥で、何かがひび割れるような感覚が走る。

 答えを聞きたくないのに、聞かずにはいられなかった。

 老人はすぐには答えなかった。ランプの光が、わずかに揺れる。その揺らぎが、男の視界を曖昧にした。


「壊れるところからだ」


「……もう十分壊れてる」


 男は、笑おうとして失敗した。

 喉の奥で、乾いた音が鳴るだけだった。


「医者として失格だ。人としても……まともじゃない」


「それは自己評価だな」


「事実だ」


 男は拳を握りしめる。

 爪が掌に食い込み、痛みが走る。それでも離さなかった。痛みがなければ、自分がここにいる実感すら失われそうだった。


「医者っていうのはさ……」


 男は唇を噛んだ。

 喉の奥に、言葉にならない塊がせり上がってくる。

 黙っていれば崩れ落ちそうで、逆に喋るしかなかった。


「命を預かる仕事だ。奇跡を起こす仕事じゃない。分かってた。分かってたはずなんだ」


 古書店の棚が、低く軋んだ。

 まるで、その言葉を記録するかのように。


「でも現実は違う。結果がすべてだ。助かれば名医で、死ねば殺人者だ」


 男は顔を上げ、虚空を睨む。


「誰も途中なんて見ない。判断の過程も、恐怖も、迷いも……全部、無かったことにされる」


 影が、再び濃くなる。

 だが今度は、叫ばない。ただ、静かにそこにある。


「俺は……医者であることが怖くなった」


 男の声は、震えていた。


「間違えたら終わりだ。人を殺す。だから、慎重になった。慎重になりすぎた」


 言葉が、刃のように自分へ向かう。


「結局、逃げただけだ……逃げた結果、人が死んだ」


 沈黙。

 ランプの光が、男の影を床に濃く落とす。その影は、歪んでいた。


「白衣を脱いだのは……楽だった」


 男は苦笑する。


「責任から逃げられた気がした。医者じゃなければ、誰も期待しない。誰も命を預けない」


 その時、初めて老人が一歩前に出た。


「では聞こう」


「……何だ」


「お前は、楽になったか」


 男は、即答できなかった。

 答えは、もう分かっている。それでも、口にするのが怖かった。


「……なってない」


「なぜだ」


「医者じゃなくなっても……俺は、あの夜から逃げられなかった」


 声が、わずかに詰まる。


「助けられなかった命は、肩書きが消えても消えない」


「夢に出る。音が聞こえる。判断の瞬間が、何度も再生される」


 男は、胸を押さえた。


「だったら……俺は何なんだ」


「医者でもない。救えない。許されない」


「ただ、生き残っただけの……」


 言葉が、途切れる。

 老人は、ゆっくりと首を振った。


「違う」


「……何が」


「お前は、まだ選択の途中にいる」


 男は、顔を上げた。

 影の中で、未来の映像が、微かに揺れ始めていた。


 空気が、静かに裂けた。

 古書店の奥、棚と棚の隙間に、薄い膜のような光が滲み出す。それは扉でも窓でもない。ただ「可能性」そのものが、形を取ったような揺らぎだった。


 男は、無意識のうちに一歩近づいていた。


「……何だ、あれは」


「未来の断片だ」


 老人は淡々と答える。


「お前が選ばなかった道。選び得る道。どちらもだ」


 光の中に、映像が浮かび上がる。


 ――一つ目の未来。

 男は、医療とは無縁の仕事に就いている。倉庫の片隅。重たい箱を運び、汗を拭き、無言で帰宅する。名前を呼ばれることはなく、判断を求められることもない。心電図の音も、消毒液の匂いもない。


 夜、布団に潜り込み、天井を見つめる。

 静かだ。穏やかだ。だが、胸の奥に、何かが沈んでいる。


「……これは」


「逃げ切った未来だ」


 老人の声に、感情はない。

 映像の中の男は、生きている。

 だが、生き延びているだけだった。


 光が揺れ、次の断片が現れる。


 ――二つ目の未来。

 男は白衣を着ていない。だが、瓦礫の街に立っている。地震で崩れた建物。泣き叫ぶ人々。仮設テントの中で、男は一人ひとりの話を聞き、できることを探している。


「先生じゃないんです」


 そう言いながらも、男は手を止めない。


「でも、今できることはあります」


 止血。声掛け。判断。

 完璧じゃない。それでも、目の前の命から逃げていない。


 男の喉が、鳴った。


「……戻ってない」


「医者にはなっていない」


「だが、救っている」


 老人は、そこで初めて男を見る。


「医師であることと、救うことは、必ずしも同じではない」


「だが、無関係でもない」


 映像が、さらに分岐する。

 何度も迷い、何度も失敗し、それでも現場に立ち続ける男の姿。責められ、怒鳴られ、時に感謝される未来。


 どの未来にも、共通点があった。


 ――あの夜は、消えていない。


 男は、歯を食いしばった。


「結局……背負い続けるのか」


「そうだ」


 老人は即答した。


「選ばなければならないのは、背負わない未来ではない」


「背負ったまま、どう生きるかだ」


 光が、ゆっくりと薄れていく。

 男は、拳を開いた。

 掌には、いつの間にか一冊の古書が乗っている。表紙には、何も書かれていない。


「これは……?」


「お前の章だ」


「まだ、白紙だがな」


 男は、その重みを確かめるように、本を胸に抱いた。

おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ