元医師の男 第4話
床に膝をついたまま、男は動けずにいた。
身体が重い。骨と内臓が、別々の重力に引かれているような感覚。呼吸をするたび、胸の奥が軋む。
「ここから……?」
言葉を吐き出した瞬間、自分の声が自分のものではないように聞こえた。
胸の奥で、何かがひび割れるような感覚が走る。
答えを聞きたくないのに、聞かずにはいられなかった。
老人はすぐには答えなかった。ランプの光が、わずかに揺れる。その揺らぎが、男の視界を曖昧にした。
「壊れるところからだ」
「……もう十分壊れてる」
男は、笑おうとして失敗した。
喉の奥で、乾いた音が鳴るだけだった。
「医者として失格だ。人としても……まともじゃない」
「それは自己評価だな」
「事実だ」
男は拳を握りしめる。
爪が掌に食い込み、痛みが走る。それでも離さなかった。痛みがなければ、自分がここにいる実感すら失われそうだった。
「医者っていうのはさ……」
男は唇を噛んだ。
喉の奥に、言葉にならない塊がせり上がってくる。
黙っていれば崩れ落ちそうで、逆に喋るしかなかった。
「命を預かる仕事だ。奇跡を起こす仕事じゃない。分かってた。分かってたはずなんだ」
古書店の棚が、低く軋んだ。
まるで、その言葉を記録するかのように。
「でも現実は違う。結果がすべてだ。助かれば名医で、死ねば殺人者だ」
男は顔を上げ、虚空を睨む。
「誰も途中なんて見ない。判断の過程も、恐怖も、迷いも……全部、無かったことにされる」
影が、再び濃くなる。
だが今度は、叫ばない。ただ、静かにそこにある。
「俺は……医者であることが怖くなった」
男の声は、震えていた。
「間違えたら終わりだ。人を殺す。だから、慎重になった。慎重になりすぎた」
言葉が、刃のように自分へ向かう。
「結局、逃げただけだ……逃げた結果、人が死んだ」
沈黙。
ランプの光が、男の影を床に濃く落とす。その影は、歪んでいた。
「白衣を脱いだのは……楽だった」
男は苦笑する。
「責任から逃げられた気がした。医者じゃなければ、誰も期待しない。誰も命を預けない」
その時、初めて老人が一歩前に出た。
「では聞こう」
「……何だ」
「お前は、楽になったか」
男は、即答できなかった。
答えは、もう分かっている。それでも、口にするのが怖かった。
「……なってない」
「なぜだ」
「医者じゃなくなっても……俺は、あの夜から逃げられなかった」
声が、わずかに詰まる。
「助けられなかった命は、肩書きが消えても消えない」
「夢に出る。音が聞こえる。判断の瞬間が、何度も再生される」
男は、胸を押さえた。
「だったら……俺は何なんだ」
「医者でもない。救えない。許されない」
「ただ、生き残っただけの……」
言葉が、途切れる。
老人は、ゆっくりと首を振った。
「違う」
「……何が」
「お前は、まだ選択の途中にいる」
男は、顔を上げた。
影の中で、未来の映像が、微かに揺れ始めていた。
空気が、静かに裂けた。
古書店の奥、棚と棚の隙間に、薄い膜のような光が滲み出す。それは扉でも窓でもない。ただ「可能性」そのものが、形を取ったような揺らぎだった。
男は、無意識のうちに一歩近づいていた。
「……何だ、あれは」
「未来の断片だ」
老人は淡々と答える。
「お前が選ばなかった道。選び得る道。どちらもだ」
光の中に、映像が浮かび上がる。
――一つ目の未来。
男は、医療とは無縁の仕事に就いている。倉庫の片隅。重たい箱を運び、汗を拭き、無言で帰宅する。名前を呼ばれることはなく、判断を求められることもない。心電図の音も、消毒液の匂いもない。
夜、布団に潜り込み、天井を見つめる。
静かだ。穏やかだ。だが、胸の奥に、何かが沈んでいる。
「……これは」
「逃げ切った未来だ」
老人の声に、感情はない。
映像の中の男は、生きている。
だが、生き延びているだけだった。
光が揺れ、次の断片が現れる。
――二つ目の未来。
男は白衣を着ていない。だが、瓦礫の街に立っている。地震で崩れた建物。泣き叫ぶ人々。仮設テントの中で、男は一人ひとりの話を聞き、できることを探している。
「先生じゃないんです」
そう言いながらも、男は手を止めない。
「でも、今できることはあります」
止血。声掛け。判断。
完璧じゃない。それでも、目の前の命から逃げていない。
男の喉が、鳴った。
「……戻ってない」
「医者にはなっていない」
「だが、救っている」
老人は、そこで初めて男を見る。
「医師であることと、救うことは、必ずしも同じではない」
「だが、無関係でもない」
映像が、さらに分岐する。
何度も迷い、何度も失敗し、それでも現場に立ち続ける男の姿。責められ、怒鳴られ、時に感謝される未来。
どの未来にも、共通点があった。
――あの夜は、消えていない。
男は、歯を食いしばった。
「結局……背負い続けるのか」
「そうだ」
老人は即答した。
「選ばなければならないのは、背負わない未来ではない」
「背負ったまま、どう生きるかだ」
光が、ゆっくりと薄れていく。
男は、拳を開いた。
掌には、いつの間にか一冊の古書が乗っている。表紙には、何も書かれていない。
「これは……?」
「お前の章だ」
「まだ、白紙だがな」
男は、その重みを確かめるように、本を胸に抱いた。
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