元医師の男 第2話
取っ手を引いた瞬間、鈴の音が鳴った。
乾いた金属音ではない。柔らかく、どこか奥行きのある音だった。その一音だけで、男は外の世界と切り離された感覚を覚える。背後で扉が閉じる音は、ほとんど聞こえなかった。
足元に、微かな違和感があった。
床は木張りで、長い年月を踏みしめられてきたはずなのに、軋みがない。まるで、音を拒んでいるようだった。男は一歩進み、また一歩進む。自分の存在が、この場所に歓迎されていない気がしてならない。
空気が、重い。
酒場の湿った匂いとは違う。乾いた紙の匂い。古いインクと埃、それに時間そのものが積もったような香りが、肺の奥まで入り込んでくる。懐かしいはずなのに、安心はなかった。むしろ、過去を無理やり嗅がされているような、不快さがあった。
視界が、ゆっくりと慣れていく。
天井は低く、ランプがいくつも吊り下げられている。光は均一ではなく、棚ごとに濃淡があった。そのため、店の奥行きが分かりにくい。どこまでが店で、どこからが影なのか、境界が曖昧だった。
本棚が、並んでいる。
背の高いもの、低いもの、歪んだもの。どれも同じではなく、無秩序に見える配置なのに、不思議と倒れそうな気配はなかった。背表紙の文字は擦れて読み取れないものが多い。だが男は、なぜか分かっていた。ここにあるのは、普通の古書ではない。
「……誰か、いるのか」
声を出すと、音が吸い込まれた。
返事はない。代わりに、ランプの炎が揺れる。まるで、店そのものが反応しているようだった。
カウンターが目に入る。
その向こうに、人影があった。男は一瞬、見間違いかと思う。あまりにも、そこに在ることが自然すぎた。いつからいたのか分からない。最初からいたのか、それとも今現れたのか。判断できない。
「いらっしゃい」
老人の声は、低く穏やかだった。
白髪で、背は高くない。だが、その佇まいには揺るぎがない。年齢は分からない。老いているのに、衰えてはいなかった。むしろ、長く立ち続けてきた柱のような静けさがあった。
男は無意識に背筋を伸ばしていた。
医師として、初対面の患者や上司と向き合う時に身につけた癖だ。だがすぐに気づく。ここでは、その癖がひどく場違いだった。
「……店、ですか」
問いは間抜けだった。
老人は笑わない。ただ、軽く頷いた。
「ようこそ。未来屋古書店へ」
その名を聞いた瞬間、胸がきしんだ。
外で見た看板の文字が、改めて現実味を帯びる。冗談ではない。幻でもない。この場所は、確かに存在している。
足元で、気配が動いた。
男が視線を落とすと、三毛猫がいた。丸くなって眠っていたらしく、こちらを一瞥しただけで、また目を閉じる。警戒も、好奇心もない。まるで、男の存在を最初から知っていたかのようだった。
「……猫までいるのか」
「ワラと言います」
老人が短く言う。
それ以上の説明はなかった。名前を与えられただけで、猫は単なる動物ではなく、この店の一部になった気がした。
男はカウンターの前に立ったまま、動けずにいた。
座るよう促されることもない。質問もされない。ただ、待たれている。沈黙が、重く伸びていく。
言葉が、喉につかえていた。
何を言えばいいのか分からない。ここに来た理由を説明しようとすると、すべてが嘘になる気がした。真実を語れば、崩れてしまう。どちらに転んでも、無傷ではいられない。
老人の目が、男を見つめていた。
値踏みするような視線ではない。裁くための目でもない。ただ、逃げ場を塞ぐような、静かな注視だった。
「……用がないなら、帰ってください」
老人は、そう言った。
優しさでも、突き放しでもない。事実を告げる声だった。
男の胸が、強く脈打つ。
帰れる。今なら、まだ。そう思った瞬間、別の感情が湧き上がった。ここまで来て、何も言わずに立ち去る。それは、これまでと何が違うのか。
男は、唾を飲み込んだ。
「俺は……」
声が震え、言葉が続かない。
老人は黙っている。ワラは尻尾を一度だけ動かし、再び眠りに落ちた。
「……医者、でした」
ようやく絞り出したその言葉が、店内に落ちた瞬間だった。
棚が、かすかに鳴った。
「医者でした」
その言葉は、床に落ちた小石のように、何の反響もなく沈んだ。
老人は眉一つ動かさない。ただ、目を逸らさずに男を見ている。その視線が、逆に男を追い詰めた。問い返されないことが、これほどまでに苦しいとは思わなかった。
男は息を整えようとした。
だが、肺は言うことを聞かない。浅く短い呼吸が続き、胸の奥がじりじりと焼ける。あの時と同じだ。判断を下す直前、時間が歪み、思考だけが空回りしていた瞬間と。
「……でした、ってことは」
老人が、ようやく口を開いた。
問いの形をしていない。ただの確認だ。それでも男の肩が跳ねる。
「今は、違う」
それだけ言うのに、ひどく時間がかかった。
違う。医者ではない。医師免許がどうこうという話ではない。自分が自分を、医者だと認められなくなった。それがすべてだった。
沈黙が戻る。
ランプの炎が、わずかに揺れた。紙の擦れる音が、どこかから聞こえる。気のせいかと思ったが、確かに棚の奥で、何かが動いている。
男は、視線を下げた。
カウンターの木目が、やけに鮮明に見える。細かな傷。染み。長年、ここに置かれてきた手の痕跡。その一つ一つが、過去の残骸のようだった。
言わなければならない。
ここまで来た以上、それは分かっている。だが、言葉が形にならない。口にすれば、現実として確定してしまう。まだ曖昧なままでいれば、どこかに逃げ道が残る。そんな錯覚に、しがみついていた。
「患者を……」
そこまで言って、喉が詰まる。
心臓が、強く脈打つ。耳鳴りがした。視界の端が暗くなる。
――違う。
患者ではない。名前がある。顔がある。声がある。
それを「患者」という言葉で一括りにすること自体が、逃げだ。
男は、歯を食いしばった。
「……人を、死なせた」
言葉が落ちた瞬間、店内の空気が変わった。
温度が、わずかに下がる。背中を、冷たいものが這い上がる感覚がした。
棚が、明確に鳴った。
ざわり、という音。布が擦れるような、紙が息を吸うような、不快な音だ。男は反射的に振り返る。背表紙が、わずかに震えている。
「事故かい」
老人の声は、相変わらず静かだった。
事故。
その言葉に、男の胸が軋む。
「……ミスです」
即答だった。
そこだけは、迷いがなかった。
「判断が、遅れた。結果として……」
声が震え、言葉が途切れる。
結果として何だ。死んだ。殺した。奪った。どの言葉も、重すぎた。
老人は、何も書き留めない。
メモも、本も開かない。ただ聞いている。その態度が、男には耐え難かった。裁かれないことが、こんなにも苦しいとは。
「……許されるとは、思ってません」
男は、絞り出すように言った。
これは懺悔ではない。許しを乞う言葉でもない。ただの事実だ。
「それでも……」
言葉が続かない。
自分が何を求めているのか、分からなかった。赦しではない。忘却でもない。では何だ。
その時だった。
背後で、本が落ちる音がした。
乾いた音。
一冊ではない。二冊、三冊と、連続して床に叩きつけられる音が響く。男は、ゆっくりと振り返った。
棚が、揺れている。
最初は錯覚かと思った。だが、確かに揺れている。背表紙が脈打つように動き、紙の隙間から、黒い影のようなものが滲み出していた。
「……何だ、これは」
声が裏返る。
影は、床に落ち、壁を這い、天井へと伸びていく。形を持たないそれは、しかし確かな悪意を帯びていた。
老人は、初めて視線を棚へ向けた。
「始まったか」
淡々とした声だった。
「……始まった?」
「この店が、君を試し始めた」
その言葉を理解するより早く、男の耳に、あの音が届いた。
ピッ……ピッ……。
心電図の音だった。
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