元医師の男 第1話
夜の酒場は、いつ来ても同じ匂いがした。
古い油の焦げた臭いと、床に染みついたアルコールの甘苦さ。それに、人の諦めが混じる。男はその匂いを吸い込むたび、胸の奥がじわりと痺れるのを感じていた。ここは、何かを取り戻す場所ではない。失ったものを、ただ反芻するための場所だ。
カウンターの端。誰とも視線を合わせなくて済む席に腰を下ろし、男はグラスを傾けた。中身は安いウイスキーだ。香りを楽しむ余裕などない。ただ喉を焼く感覚だけが欲しかった。氷がぶつかり合い、かすかな音を立てる。その音が、やけに大きく響いた。
「……もう一杯」
声は自分のものとは思えないほど掠れていた。
バーテンダーは何も言わず、グラスを受け取る。その無言が、ありがたかった。問いも、同情も、ここでは不要だ。男は答えを持っていないし、言い訳も尽きている。
注がれた酒を一気に飲み干しても、酔いは回らなかった。
かつては少量でも頭がぼやけたはずなのに、今では瓶を空けても意識は妙に澄んでいる。酔えないという事実が、男には何よりも残酷だった。逃げ場はない。酒ですら、彼を赦してはくれない。
白衣を脱いでから、三年が経つ。
正確には、「脱がされた」のだが、男はその言葉を使わない。使ってしまえば、すべてを他人のせいにしてしまいそうだった。医師免許は失っていない。それでも、名乗ることはできなかった。鏡に映る自分に向かって「医者だ」と言う勇気が、どうしても持てなかった。
ふと、視界の端でテレビが明滅する。
救急医療の特集だった。白い廊下、走る医師、必死な声。男は反射的に目を逸らす。胸の奥で、何かが軋む音がした。
――あの夜。
思い出そうとしていないのに、記憶は勝手に浮かび上がる。
モニターの数値。心拍数。血圧。看護師の焦った声。自分の手。ほんの数分。たった数分の判断の遅れ。それが、すべてを分けた。
「……俺が、殺したんだ」
呟きは、グラスの底に沈んでいった。
隣の客は笑い、奥のテーブルでは誰かが肩を叩き合っている。世界は何事もなかったかのように回り続けている。それが、男には耐え難かった。自分だけが、時間から取り残されている。
男は金を置き、立ち上がった。
足元がわずかに揺れる。だが、それは酔いではない。長く座っていたせいでもない。心が、どこにも立つ場所を見つけられずにいるだけだ。
扉を開けると、夜風が頬を打った。冷たく、鋭い。
深く息を吸うと、肺が痛んだ。その痛みだけが、まだ生きている証のように思えた。
その時だった。
路地の奥で、不釣り合いなほど柔らかな灯りが揺れているのが見えた。
街灯とは違う。看板の光とも違う。どこか懐かしく、それでいて不安を掻き立てる光だった。
「……未来、か」
かすれた声で呟く。
胸の奥で、拒絶と好奇心がせめぎ合う。未来など、自分には関係ないはずだ。それでも、男の足は止まらなかった。
その灯りが、彼を待っているような気がしてならなかった。
路地に足を踏み入れた瞬間、街の音が遠のいた。
さっきまで背中に張り付いていた喧騒が、嘘のように薄れる。車の走行音も、人の笑い声も、膜一枚隔てた向こう側に押しやられた感覚だった。男は立ち止まり、濡れたアスファルトを見下ろす。雨は降っていないはずなのに、路面は鈍く光っている。
柔らかな灯りは、確かにそこにあった。
逃げ道のような細い路地の奥、古い建物の影に半分隠れるようにして、橙色の光が揺れている。近づくほどに、その光は強くなるのではなく、むしろ静かに呼吸しているように見えた。
「行くな」
胸の奥で、誰かが囁いた。
それは理性だったのか、それとも恐怖だったのか、男には判別がつかなかった。分かっているのは一つだけだ。あの光の先に、安らぎはない。そんな予感が、はっきりとあった。
男は踵を返そうとした。
こんなものは幻覚だ。酒のせいだ。あるいは、疲れ切った神経が見せる悪質な冗談だ。そう言い聞かせ、一歩引く。だが足は、思うように動かなかった。
灯りのそばに、看板がある。
古びた木製のそれには、掠れた文字で店の名が書かれていた。
「未来屋……古書店」
声に出した途端、胸がざわつく。
未来。その言葉は、男にとって忌避すべきものだった。未来とは、可能性の別名だ。だが彼に残されているのは、可能性ではない。結果だけだ。変えられない過去と、消えない失敗。それがすべてだった。
「ふざけるな」
吐き捨てるように言う。
未来を語る資格など、自分にはない。あの夜に、すべてを置き忘れてきたはずだった。白衣と一緒に、未来も脱ぎ捨てた。それなのに、なぜ今さら。
男は深く息を吸い、また吐いた。
冷たい空気が肺を満たす。生きている。それだけの事実が、ひどく重かった。
数歩進み、また止まる。
視線は、灯りと足元を行き来する。入ってしまえば、何かが起こる。良いことではない。もっと厄介で、もっと逃げ場のない何かだ。それは直感だった。医師として培った勘が、今もなお、最悪の事態を正確に予測している。
――それでも。
男は思い出していた。
酒場で感じた空虚。酔えない自分。世界から切り離されたような孤独。あそこに戻っても、何も変わらない。ただ同じ夜を繰り返すだけだ。
「……どうせ、もう詰んでる」
小さく笑う。
笑いは乾いていて、喉に引っかかった。最悪を避け続けた結果、最悪の場所に立っている。それが今の自分だ。ならば、これ以上悪くなることもないだろう。
灯りは、何も語らない。
招くでもなく、拒むでもなく、ただそこに在り続けている。その無関心さが、逆に男を追い詰めた。選ぶのは自分だ。逃げる理由も、進む理由も、もう尽きている。
男は一歩、踏み出した。
靴底が路地の水溜まりを踏み、かすかな音を立てる。その音が、やけに大きく響いた気がした。
「……未来、か」
もう一度、呟く。
今度は嘲りではなかった。恐怖と、諦めと、それでも残ってしまった微かな何かが混じった声だった。
灯りの前に立つと、扉が見えた。
古い木製の扉。取っ手は磨り減り、何度も開閉された痕跡がある。そこに手を伸ばし、男は再び動きを止めた。
開けてしまえば、戻れない。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
「……もう、とっくに戻れないんだ」
男は、取っ手を握った。
その冷たさが、確かな現実として手のひらに伝わる。逃げ場のない選択。それでも選ばなければならない夜が、今、始まろうとしていた。
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