昼下がりの光 第3話
幻影が消えたあとも、男はしばらく立ち上がれなかった。
誠実さを選ぶ未来。数字よりも関係を選ぶ自分。頭では理解できても、それを現実で行うことが、どれほど勇気を要するかを、彼は嫌というほど知っている。
営業とは、選択の連続だ。
一歩踏み込めば信頼に近づくが、踏み外せば関係が終わる。
慎重に進めば安全だが、相手の心には届かない。
その綱渡りの上で、彼はこれまで「無難」を選び続けてきた。
「……あの未来の俺は、強すぎます」
男は、ぽつりと漏らした。
「正直に言って、条件が悪いなんて、普通は言えません。言った瞬間、相手は別の会社に行くかもしれない」
老人は、静かに頷く。
「行くかもしれんな。だったら……」
男は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
その先に続くのは、いつもの思考だ。
――だから言わない。だから守る。だから失う。
老人は、何も急かさない。
ただ、もう一度だけ、失敗録に手を触れた。
すると、古書は再び淡く光り、今度はより鮮明な幻影を映し出した。
そこは、数か月後の未来だった。
男は、以前契約を逃した顧客と、再び向かい合っている。場所は、派手な会議室ではなく、打ち合わせスペースの片隅。コーヒーの紙カップが二つ、テーブルに置かれている。
「正直に言います」
幻影の中の男は、少しだけ息を整えてから話し始めた。
「以前の失敗以来、ずっと考えていました。どうすれば信頼を取り戻せるのか」
顧客は、無言で頷く。
「でも、取り戻すという考え自体が、間違っていたのかもしれません。一度壊れた信頼は、元に戻るものじゃない。だから……」
男は、はっきりと顔を上げる。
「新しく築き直したいんです。御社にとって、本当に必要な提案を、正直に続けたい」
沈黙が流れる。
この沈黙は、拒絶かもしれない。
幻影の男は、それを受け入れる覚悟で、黙って待っていた。
やがて、顧客が口を開く。
「……あなた、変わりましたね」
その声には、驚きと、わずかな柔らかさが混じっていた。
「正直、以前は不安でした。失敗したときの対応も、悪くはなかったけど……どこか、必死すぎた」
男の胸が、締めつけられる。
「でも今は、無理に売ろうとしていない。だから、こう言える」
顧客は、ゆっくりと手を差し出した。
「すぐの契約じゃなくていい。もう一度、あなたと話をしたい」
幻影の中で、その手は確かに温かそうだった。
映像が消えた瞬間、男の目に涙が滲んだ。
それは、救われたからではない。
信頼とは、相手が差し出すものであり、自分が奪い取るものではないと、ようやく理解したからだ。
「……信じたい、って言葉は」
男は、声を震わせながら言う。
「結果じゃなくて、途中なんですね」
老人は、静かに微笑んだ。
「差し出された手はな、掴めば責任が生まれる。だからこそ、価値がある」
男は、深く頷いた。
昼下がりの光は、まだ外にある。
だが今は、その光の中へ戻ることを、少しだけ恐れずに想像できていた。
幻影が消え、再び古書店の静寂が戻ってきたとき、男は自分の胸の内に、これまでとは質の違う重さを感じていた。
それは絶望の重さではない。かといって、希望だけで満たされた軽さでもなかった。選択肢を与えられた人間が背負う、責任の重さだった。
営業という仕事をしてきて、彼は何度も「決断」をしてきた。
値引きをするか、しないか。
押すか、引くか。
だがそれらの多くは、結果を予測したうえでの判断だった。成功しそうな方、失敗しにくい方を選ぶ。そうして自分を守ってきた。
だが、失敗録が映した未来は違った。
結果がどうなるか分からないまま、それでも誠実さを選ぶ姿勢。
失う可能性を承知のうえで、相手に正直でいようとする覚悟。
「……簡単じゃ、ないですね」
男は、深く息を吐いた。
「信頼を築き直すって、結局、自分を差し出すことなんだ」
老人は、その言葉を否定しなかった。
カウンターに肘をつき、少しだけ姿勢を崩す。
「差し出したものが、必ず受け取られるわけではない。それでも出す。それが誠実というものじゃ」
男は、頷きながらも視線を落とした。
「正直……怖いです。次に同じ相手と会うとき、また断られたらと思うと」
「断られるかもしれんな」
老人の声は、淡々としている。
「だが、断られた理由は、前とは違うものになる」
男は、その意味を考えた。
以前の断りは、「信用できない」という無言の評価だった。
だが、誠実さを選んだ末の断りは、「考えが合わなかった」という、対等な結果になる。
それは、痛みの質が違う。
「……逃げ道が、なくなりますね」
「そうだ」
老人は静かに答えた。
「だが、逃げ道がある限り、人は本気になれん」
ワラが、膝の上でゆっくりと起き上がった。
大きく伸びをし、男の方を一瞥する。その目は、どこか試すようでもあり、見守るようでもあった。
男は、椅子から立ち上がった。
足元はまだ少し不安定だが、それでも、来たときとは違う感覚がある。
「……戻ります」
それは、会社へ戻るという意味だけではなかった。
営業マンとして、自分が立つべき場所へ戻るという決意だった。
老人は、何も言わずに頷いた。
失敗録は、すでに棚へと戻り、他の古書と変わらぬ顔で並んでいる。
「次に来るときは……」
男は、言いかけて言葉を止めた。
「いや。来ない方が、いいですね」
老人は、わずかに口角を上げた。
「それが、一番じゃ」
男は扉へ向かう。
ちりん、と鈴の音が鳴る直前、背後から声が届いた。
「信頼はな、完成するものではない。築き続けるものだ」
男は振り返らず、深く一度だけ頷いた。
扉を開けると、昼下がりの光が、やはりそこにあった。
だが今度は、その光が、逃げ場のない明るさではなく、進む先を照らすものに見えた。
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