昼下がりの光 第2話
男は、しばらく言葉を探していた。
話せと言われても、何から話せばいいのか分からない。失敗とは、振り返ろうとすると途端に輪郭を失うものだ。後悔と自己弁護と諦めが絡み合い、どこが始まりでどこが終わりなのか、本人にすら判然としない。
「……大したことじゃ、ないんです」
ようやく絞り出した言葉は、彼自身を納得させるためのものだった。
「本当に、致命的なミスじゃない。納期を一度、読み違えただけです。現場との調整が甘かった」
老人は何も言わない。
ただ、視線を逸らさずに聞いている。その沈黙が、男の言葉を先へ押し出した。
「その結果、相手に迷惑をかけました。謝罪もしましたし、再発防止の説明もしました。先方も、表向きは納得してくれたと思っていました」
だが、と男は続ける。
「空気が変わったんです。それまで雑談していたのに、急に要件だけになる。提案に対する反応も、どこか一歩引いたものになった」
男は、指先を見つめた。
机に置かれた手が、わずかに震えている。
「それでも、信じたかった。誠実にやり続ければ、いずれ取り戻せるって。だから、通い続けました。資料も作り直しました。相手の立場で考えて、条件も限界まで詰めた」
息を吸い、吐く。
「でも、今日……条件で負けたって言われました。分かってます。ビジネスですから。だけど……」
男は、そこで言葉を詰まらせた。
「本当は、条件じゃない。俺自身が、信用されてなかったんじゃないかって」
その瞬間、店内の空気が微かに変わった。
音が消えたわけでも、光が変わったわけでもない。ただ、何かが「動いた」と直感できる変化だった。
背後の本棚から、かさり、と紙の擦れる音がする。
男が振り返ると、一冊の古書が、ゆっくりと棚から抜け出していた。
誰かが引き抜いたわけではない。本が、自ら選んで前へ出てきたように見えた。
「……何だ、あれは」
古書は、床に落ちることなく、男の胸の高さで静止した。
表紙には、何の装飾もない。だが、次の瞬間、文字が浮かび上がる。
――失敗録。
ぞくりと、背筋に冷たいものが走った。
本はひとりでに開き、白い紙面に黒い文字が滲むように現れていく。
それは、今しがた男が語った内容そのものだった。納期ミスの日付、相手の会社名、電話口でのやり取り。さらには、胸の奥で呟いたはずの言葉まで、余すところなく記されている。
「……俺の、ことだ」
声が掠れた。
誰にも話していない感情まで書かれていることに、言いようのない恐怖と安堵が同時に湧き上がる。
「語られた失敗は、ここに記される」
老人が、静かに言った。
「この店の本は、事実だけを書かん。その失敗が、その人にとって何であったのかを写し取る」
失敗録の文字が、淡く光を帯びる。
紙面の奥が揺らぎ、まるで水面の向こうを覗き込むように、映像が立ち上がった。
そこに映ったのは、見覚えのある会議室だった。
だが、時間が違う。空気が違う。
未来だと、男は悟った。
自分は、再び顧客の前に立っている。
だが、必死に取り繕う表情ではない。条件を並べ立てるでもない。ただ、まっすぐに相手を見ている。
顧客の口が、動いた。
「今回は、正直に話してくれてありがとう」
その一言が、男の胸を強く打った。
幻影は、そこで静かに途切れた。
男は、しばらく言葉を失っていた。
老人は失敗録を閉じ、穏やかに言う。
「これは、数ある可能性の一つに過ぎん」
男は、震える声で尋ねた。
「……俺は、まだ、選べるんですか」
老人は、すぐには答えなかった。
ただ、ゆっくりと頷く。
「選ぶのは、いつも人間だ」
失敗録が閉じられると、店内は再び静けさを取り戻した。
だが、先ほどまで映し出されていた幻影の余韻は、男の胸の内で生々しく脈打っている。
――正直に話してくれてありがとう。
あの言葉は、慰めでも、都合のいい希望でもなかった。
むしろ、重かった。なぜなら、それは「信頼が戻った結果」ではなく、「信頼を築こうとする姿勢」に対して向けられた言葉だったからだ。
「……あれは、本当に起こる未来なんですか」
男は、老人に問いかけた。
老人は、すぐには答えなかった。
膝の上のワラが、小さく身じろぎし、尻尾をひと振りする。その動きに合わせるように、老人はゆっくりと口を開いた。
「起こるかどうかは、分からん。未来とは、そういうものだ」
「じゃあ、意味がないじゃないですか」
思わず、語気が強くなった。
自分でも驚くほど、焦りが滲んでいた。
「希望だけ見せられて、結局何も変わらなかったら……」
言葉は、途中で止まった。
その先を言えば、自分が何を恐れているのか、はっきりしてしまう気がした。
老人は、男を責めるような視線を向けない。
ただ、淡々と告げる。
「意味があるかどうかを決めるのは、結果ではない」
老人は、カウンターの下から、別の一冊を取り出した。
今度の古書は、失敗録ほど強くは光らない。だが、確かな重みを感じさせる佇まいだった。
「失敗した者の多くはな、未来を二つに分けて考える。うまくいく未来と、うまくいかない未来じゃ」
老人はページをめくる。
「だが、この店が映すのは、選び続けた末の未来だ。一度の行動で決まるものではない」
古書の紙面が揺らぎ、再び映像が立ち上がった。
先ほどの会議室とは違う場面だ。
男は、自分が未来で顧客の前に立っている姿を見る。
だが、今回は条件を下げる提案ではない。むしろ、不利になる内容を、はっきりと伝えている。
「正直に申し上げます。今回の条件では、御社に無理が出ます」
幻影の中の自分は、そう言っていた。
男は、息を呑んだ。
それは、契約を遠ざける言葉だ。営業マンとして、最も言いたくない一言でもある。
顧客は、不快そうに眉をひそめる。
「では、なぜ持ってきたんですか」
「信頼を失いたくないからです」
幻影の自分は、迷いなく答える。
「一度、私は失敗しました。だからこそ、今度は数字よりも、長く続く関係を選びたい」
沈黙が落ちる。
会議室の空気が、張り詰める。
男は、その場に立っているだけで、胸が苦しくなった。
こんなことを言えば、相手は離れていくかもしれない。それでもなお、口にする覚悟が、自分にあるのか。
顧客は、やがて小さく息を吐いた。
「……正直ですね」
それが、評価なのか、失望なのかは分からない。
だが、幻影の中の自分は、頭を下げていた。
映像は、そこで静かに消えた。
男は、しばらく動けなかった。
老人の声が、背中に届く。
「信頼はな、取り戻すものではない。新しく築き直すものだ」
男は、唇を噛み締めた。
「……怖いですね」
「そうだ」
老人は、否定しなかった。
「怖さを避ける選択もある。だが、その先に映る未来は、また別の失敗録になる」
男は、深く息を吐いた。
昼下がりの光は、まだ店の外にある。
だが、その光の意味が、少しだけ変わり始めているのを、彼は感じていた。
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