昼下がりの光 第4話
会社へ戻る足取りは、決して軽くはなかった。
未来屋古書店を出た瞬間、世界は何事もなかったかのように動き続けていた。通行人はスマートフォンを見ながら歩き、信号は規則正しく色を変え、昼下がりの光は相変わらず穏やかだ。
だが、男の内側では、確かに何かが変わっていた。
報告書を提出し、最低限の業務を終えたあと、彼は机に向かったまま、しばらく動けずにいた。
次に何をすべきかは分かっている。
以前契約を逃した顧客に、改めて連絡を入れることだ。
だが、その一歩が、重い。
もし断られたら。
もし冷たくあしらわれたら。
その想像は、胸の奥に鈍い痛みを残す。
それでも、男は電話をかけた。
数回のコールの後、聞き慣れた声が応答する。
「はい、○○株式会社です」
喉が、一瞬詰まった。
だが、逃げなかった。
「以前お世話になりました。△△社の――」
名乗ると、相手はすぐに思い出したようだった。
「ああ、あの件ですね」
声色は淡々としている。
拒絶でも、歓迎でもない。
「お時間を少しだけ、いただけないでしょうか。契約の話ではありません」
沈黙が流れる。
その数秒が、やけに長く感じられた。
「……分かりました。三十分ほどなら」
電話を切ったあと、男は深く息を吐いた。
未来屋古書店で見た幻影は、まだ現実にはなっていない。
だが、確かに今、選択は始まっている。
数日後、男は再び、その顧客の前に座っていた。
以前と同じ打ち合わせスペース。
だが、テーブルの上に置かれた資料は、驚くほど少ない。
「今日は、提案を持ってきていません」
男は、はっきりとそう言った。
相手は、怪訝そうに眉をひそめる。
「では、何の話でしょうか」
「謝罪と、説明です」
男は、視線を逸らさなかった。
「以前の納期ミスについて、改めてお話ししたくて。あのとき、私は結果だけを謝りました。ですが、なぜあの失敗が起きたのか、どう向き合ったのかを、きちんと伝えていなかった」
顧客は、黙って聞いている。
「正直に言います。私は、信頼を取り戻そうとしていました。ですが、それは、自分の不安を解消したかっただけかもしれません」
男は、そこで一度、言葉を切った。
怖さが、確かにあった。
だが、それを飲み込む。
「だから今日は、契約のお願いをしに来たわけではありません。今後、もし関わる機会があるなら、同じ失敗を繰り返さないために、何を変えたのかを知ってほしかった」
沈黙が、再び落ちる。
顧客は、資料に目を落としたまま、しばらく何も言わなかった。
男は、その時間を逃げずに受け止めた。
「……正直ですね」
やがて、顧客が口を開く。
「以前は、もう少し、取り繕っている印象がありました」
胸が、きしんだ。
「でも、今日は違う。売ろうとしていない」
男は、頷いた。
「売る資格があるかどうかも、含めて判断していただければ」
顧客は、小さく息を吐いた。
「すぐに何かが変わるとは言えません。ですが……」
そこで、相手は顔を上げた。
「もう一度、話をする価値はあると思います」
その言葉は、約束ではなかった。
だが、拒絶でもなかった。
男は、深く頭を下げた。
未来屋古書店で見た幻影と、完全に同じではない。
それでも、確かに現実は、幻影に近づいていた。
顧客との再会から数週間が過ぎた。
男の日常は、一見すると何も変わっていない。朝は満員電車に揺られ、昼は簡単な昼食を取り、夕方には報告書をまとめる。営業という仕事のリズムは、昨日も今日も同じだ。
だが、彼自身の中では、確かに変化が起きていた。
以前なら、次の訪問に向けて「どう売るか」を最初に考えていた。
価格をどう調整するか、競合より何が優れているか、相手の懸念をどう潰すか。
だが今は違う。
「何を伝えるべきか」
「何を、あえて言わないべきか」
その問いが、先に立つ。
再会後、顧客とのやり取りは、決して密ではなかった。
定期的な訪問も、頻繁な電話もない。代わりに、要点だけをまとめた短いメールが、時折やり取りされるだけだ。
それでも、その文面は、以前よりも確かな温度を帯びていた。
《この点については、現時点では御社に不利になる可能性があります》
《別案もありますが、急ぐ必要はありません》
そうした一文を書くたびに、男の指は一瞬、止まる。
これを書けば、案件は遠のくかもしれない。
それでも、送信ボタンを押す。
返信は、すぐには来ないことが多い。
だが、来たときの言葉は短く、要点を突いていた。
《正直に書いてくれて助かります》
《少し時間をください》
その一言一言が、男の胸の奥で、静かに積み重なっていく。
ある日、男は社内で、後輩から声をかけられた。
「最近、あの案件どうなってるんですか? 正直、もう厳しいと思ってましたけど」
男は、少し考えてから答えた。
「分からない。ただ、ちゃんと向き合えてはいると思う」
後輩は、不思議そうな顔をした。
営業としては、曖昧すぎる答えだ。
だが、男自身は、その言葉に嘘を感じなかった。
数日後、一本の電話が入る。
「少し、話せますか」
顧客からだった。
指定された日時に訪ねると、以前よりも柔らかい表情で迎えられた。
打ち合わせの内容は、すぐに契約へ結びつくものではない。
むしろ、先の見えない相談だった。
「こういうケース、御社ならどう考えますか」
男は、即答しなかった。
その場で分からないことは、分からないと言った。
調べる必要があることは、正直にそう伝えた。
その姿勢に、顧客は何度か頷いた。
「……以前より、話しやすいですね」
その言葉に、男は胸の奥で、小さく息を吐いた。
信頼は、戻ってきたわけではない。
だが、確かに芽吹いている。
それは、数字にも、成果にも、すぐには表れない。
それでも、踏みしめる足元の感触は、以前よりも確かだった。
帰り道、男はふと、あの古書店のことを思い出した。
未来屋古書店。
あれが幻だったのかどうか、今でも分からない。
だが、ひとつだけは確かだ。
信頼は、音を立てて戻ってくるものではない。
静かに、気づかぬうちに、芽を出す。
そして、その芽を踏みつけないように歩くことこそが、誠実なのだと。
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