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未来屋古書店  作者: 倉木元貴


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16/49

消えたピアノの音

 冬休みが明けたばかりの午後。曇り空の下、放課後の校舎はどこか薄暗く、人気がなかった。

 中学二年の美浦菜月みうらなつきは、音楽室の前で立ち止まっていた。

 扉の小窓から中を覗くと、古いグランドピアノが薄い布で覆われている。

 彼女の胸がぎゅっと縮む。

 

 ──もう、弾けない。


 ピアノは好きだった。

 幼い頃から弾いてきた。

 誰かに聴かれるのは少し恥ずかしいけれど、それでも鍵盤を叩くのが楽しかった。

 だけど、あの日から、音を奏でるのができなくなった。

 

 去年の秋。

 コンクールの学校選抜で、菜月は選ばれた。

 うまく弾きたい。みんなにも迷惑をかけたくない。失敗はしたくない。

 緊張で手が震え、鍵盤は冷たくて──演奏は途中で止まった。


 あれ……指はどうやって動かしていたんだっけ……。

 

 会場の静けさが刺すようだった。

 

「……もう、無理だよ」

 

 菜月は小さく呟き、音楽室から背を向けた。

 自分の部屋で練習しても、鍵盤を押す指がこわばる。

 音を出すのが怖い。間違えるのが怖い。

 ──弾こうとすると、過呼吸が起きそうなくらい息が早くなる。


 誰にも言えなかった。

 特に、母には。

 母はピアノの先生で、菜月には大きな期待を寄せていたから。

 

「菜月。明日は練習できる? 今度こそ頑張らないと」

 

 そう言われるたび、胸が苦しくなった。

 母は悪い人ではないけれど。

 

 放課後の廊下で、菜月は俯いていた。

 と、その時。

 視界の端に、不自然な灯りが差し込んだ。

 

「……?」

 

 廊下の突き当たり、非常扉の脇に、小さな店がひっそりと立っていた。

 こんな場所に店なんてあるはずがない。ここは学校なのだから。

 だが、確かに古びた木の看板が揺れている。

 

 未来屋古書店

 

 菜月は吸い寄せられるように、その扉へと近づいた。

 扉の前に立ち、押して開ける。

 

 カラン──。


 鈴の音が、春の風のように優しく響く。

 店内は柔らかな灯りに包まれていた。

 暖かさに思わず涙が出そうになる。

 

「いらっしゃい」

 

 奥から現れた白髪の老人は、菜月を見るとふんわり微笑んだ。

 三毛猫が店の奥の椅子の上で丸まっている。

 

「……あの……ここって……?」

 

「本屋ですよ。ただし、少しだけ普通の本屋とは違います。“未来の本”を扱うのです」

 

「み、未来……?」

 

「ええ。未来に進むのが困難になった人に、未来を見せるのです。あなたは、どんな失敗をしたのですか? 嫌なら話さなくても構いませんよ。ここはそういう場所ですから」

 

 老人はゆっくりとした口調で言う。

 菜月はぎゅっと胸の前で手を握る。

 

「私……失敗して……ピアノ、弾けなくなっちゃって……」

 

 言い終えると同時に、涙がポロポロと落ちた。

 誰にも言えなかった言葉。

 言った瞬間に、心の壁が壊れた。

 

「……ピアノの音が、怖いんです」

 

 老人はそっとティッシュを差し出してくれた。

 

「怖さは、未来を閉ざしてしまいます。ですが……あなたにはまだまだ続きがありますよ」

 

 ゆっくりと立ち上がり、奥の本棚へと歩く。

 老人が指先で撫でた一冊の古書が、淡い光を放ち始める。

 

「さて、あなたの失敗録──開いてみましょう」


 空気が震えるように広がり、菜月の視界が飲み込まれた。

 

 気づくと、見覚えのあるステージに立っていた。

 たくさんの観客。

 黒く光るグランドピアノ。

 

 足が震える。

 

 ──これ、あの日の……


 菜月は自分がミスをして、止まってしまった瞬間を見ていた。

 ステージの菜月は青ざめ、辛そうに唇を噛んでいる。

 だが、光景は少しだけ違っていた。

 観客席の中に、小さな少女が座っていた。

 菜月と同じくらいの年齢で、優しい目をしている。

 

(……この子、誰?)

 

 少女は菜月の演奏が止まっても、ずっとステージを見ていた。

 失敗した菜月を責めるでも笑うでもなく、ただ見つめている。

 

「あなたの演奏をずっと楽しみにしていた子です」

 

 静かに老人の声が響く。

 

「彼女はあなたの“音”が好きなのです。上手い下手や成功失敗ではなく、あなたの音色が好きなのです」

 

 菜月は涙をこらえられなかった。

 

「でも……私、失敗しちゃったから……」

 

「失敗したからこそ、あなたの音色は“続き”を求めているのです」

 

 光が一度消え、また新しい景色が現れた。

 

 そこは小さな地域ホール。

 大きくはないけれど、柔らかな照明があたたかい。

 

 ステージの中央に──高校生になった菜月がいた。

 少し大人びて、背も伸びている。

 手は震えているが、ピアノの前に座っていた。

 客席には、あの日の少女が大きくなった姿で座っている。

 目がキラキラ輝いている。

 高校生の菜月は深呼吸し、鍵盤に触れた。

 

 最初はかすれるように、弱く。

 けれど──音は確かに、“菜月自身”の形を持っていた。

 ミスしても構わず、最後まで弾き切った。

 弾き終えた時、客席の少女が涙を流して拍手している。

 老人の声が菜月の背中をそっと支えた。

 

「未来のあなたは、また音を取り戻します。誰かの期待のためではなく、誰かに認められるでもなく、ただ、自分のために」

 

 菜月の胸が熱くなる。

 

「……弾けるの……? また、弾けるようになるのですか?」

 

「もちろんです。あなたが“弾きたい”願う限り」

 

 光がゆっくりと薄れ、未来屋古書店の店内へと戻ってきた。

 老人は古書を閉じ、菜月に手渡す。

 

「音は消えません。いったん沈んでいるだけです。あなたが鍵盤に触れれば、必ず戻ってきます」

 

 菜月は震える声で言った。

 

「弾いてみたい……もう一度……」

 

「その気持ちがあれば十分です」

 

 店を出ると、校舎の外は夕焼けだった。

 橙の光が菜月の肩を照らす。

 

 音楽室の方向に目を向ける。

 胸はまだ少し痛い。

 けれど──先ほどより身体はずっと軽い。


「……戻ろう」

 

 菜月は歩き出した。

 あの日止まった音の、続きを弾くために。

 

 ふいに振り返ると、未来屋古書店は跡形もなく、ただの壁になっていた。

 だが、店の扉が閉まる時に聞こえた、あの鈴の音だけが胸の中で優しく鳴り続けていた。

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