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未来屋古書店  作者: 倉木元貴


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老後の後悔 最終話

 当日。

 男は、公民館の前で立ち止まっていた。

 建物自体は、何度も見てきた。

 選挙の投票、町内会の集まり――それだけの場所。

 だが今日は、違う。

 入口のガラス越しに、子どもたちの姿が見える。

 小学生だろうか。落ち着きなく、椅子を揺らしている。


「……帰るなら、今だぞ」


 誰にともなく呟く。

 胸の奥が、きゅっと縮む。

 声が出なかったら。笑われたら。


 ――また、逃げるか?


 その瞬間、古書店の白い余白が脳裏をよぎった。

 話す。失敗を。

 男は、意を決して扉を押した。

 会場は、思ったよりも小さい。

 簡易的な舞台、折り畳み椅子。

 司会の女性が、男に気づいて近寄ってくる。


「今日は、ありがとうございます」


「……いえ」


 喉が、少し乾いている。

 控室もない。

 舞台袖に椅子が一つあるだけだ。

 男は、深呼吸を繰り返す。


 ――大丈夫だ。


 失敗しても、死にはしない。

 やがて、名前が呼ばれる。拍手は、まばら。

 男は、舞台に立った。子どもたちの視線が、刺さる。


「……こんにちは」


 一瞬、沈黙。だが、逃げない。


「今日は……成功した話は、しません」


 前列の少年が、首を傾げた。


「失敗の話です。しかも、“しなかった失敗”の話」


 子どもたちが、少し前のめりになる。

 男は、語った。

 夢を持っていたこと。怖くて言えなかったこと。挑戦しなかったことで、長く後悔したこと。

 言葉は、決して上手くない。

 途中で詰まり、何度も息を整える。

 それでも。

 誰も、笑わなかった。

 子どもたちは、黙って聞いている。


「……だから」


 男は、ゆっくりと続けた。


「皆さんには、失敗してほしい」


 会場が、ざわつく。


「失敗して、恥をかいて、それでも続けてほしい。挑戦しなかった後悔は……年を取ってから、思った以上に重いです」


 沈黙。

 やがて、一人の少女が、手を挙げた。


「失敗したら……やり直せますか?」


 男は、即答できなかった。

 だが、正直に答える。


「……同じ形では、無理かもしれない」


 少女の顔が、少し曇る。

 男は、続けた。


「でも、別の形なら、何度でもやり直せる」

「少なくとも、私は今、やり直している」


 少女は、ゆっくりと頷いた。

 話が終わる。拍手が、起きた。前よりも、確かな音だった。

 男は、深く頭を下げた。

 胸が、熱い。


 ――届いた。


 確信が、あった。

 公民館を出ると、夜風がやさしく頬を撫でた。

 昼間の緊張が、ようやく解けていく。

 男は、ベンチに腰を下ろし、深く息を吐いた。


「……終わったな」


 胸の鼓動は、まだ早い。だが、不思議と心地いい。

 足元に、影が落ちた。


「ありがとうございました」


 顔を上げると、先ほどの少女と、その母親が立っていた。

 少女は、少し照れくさそうに言う。


「おじいさんの話、わたし……怖かったけど、好きです」


 胸が、ぎゅっと締めつけられる。


「ありがとう」


 男は、そう答えるのが精一杯だった。

 母親が、頭を下げる。


「最近、失敗を怖がって何も挑戦しなくなっていて……。今日の話、きっと心に残ります」


 男は、首を振った。


「立派な話じゃありません。ただの、後悔です」


「だから、よかったんです」


 母親は、微笑んだ。

 二人が去ったあと、男は夜空を見上げる。

 星は、少ない。

 それでも、確かに光っている。


「……まだ、怖いな」


 正直な気持ちが、口をつく。

 次も、うまく話せるとは限らない。

 断られることも、あるだろう。


 だが。

 もう、逃げなかった。

 その事実が、支えだった。

 帰り道。

 ふと、路地の奥に、柔らかな灯りが見えた気がした。

 立ち止まり、目を凝らす。


 ――何もない。


 ただの街灯だ。

 男は、少しだけ笑った。


「……ありがとうな」


 誰に向けた言葉か、自分でも分からない。

 だが、胸の奥が、温かい。

 家に着く。

 机の上には、書きかけの原稿。

 男は、ペンを取り、最後の一行を書き足した。


 ――遅すぎることは、ない。


 書き終えると、深く息を吐いた。

 夜は、静かだった。

 その夜、男は夢を見た。

 懐かしい匂い。

 紙と埃と、微かなランプの油。


 ――未来屋古書店。


 店内は静かで、あの三毛猫は棚の上で丸くなっている。

 老人は、いつもの席に座り、ゆっくりと本を閉じた。


「……終わったんですか」


 男が尋ねると、老人は首を横に振った。


「一区切りです」


 本の背表紙には、はっきりと題が刻まれていた。


 『老境の後悔』


 だが、以前とは違う。

 副題が、増えている。


 ――それでも、歩き出した日々。


 男は、胸が熱くなるのを感じた。


「若い頃の後悔は、消えません」


 老人は、静かに言う。


「ですが、それは“失敗”ではなく、“素材”になります」


「素材……?」


「語る言葉になり、誰かの背中を押す材料です」


 男は、舞台での子どもたちの顔を思い出した。

 少女の質問。

 小さな拍手。


「……無駄じゃ、なかった」


 老人は、穏やかに頷く。


「失敗は、未来を閉ざしません。向きを変えるだけです」


 ランプの光が、ゆっくりと強くなる。


「あなたは、もうこの店に来なくていい」


 男は、少し寂しそうに笑った。


「また、迷ったら?」


「その時は……」


 老人は、意味ありげに目を細める。


「別の形で、灯りが見えるでしょう」


 男は、深く頭を下げた。


「……ありがとうございました」


 次の瞬間。

 朝の光が、カーテン越しに差し込んでいた。

 夢だったのかもしれない。

 だが、胸の奥には、確かな感触が残っている。


 机の上には、原稿の束。

 予定表には、次の講話の日程。

 男は、ゆっくりと立ち上がる。


「残りの時間こそ……未来だな」


 窓を開けると、澄んだ風が入ってきた。

 街は、今日も変わらない。

 だが、男の歩幅は、少しだけ前を向いている。

 その路地のどこかで。

 静かに灯る古書店が、また一人の迷える誰かを待っている。


 ――失敗は、終わりではない。

 ――未来の、始まりだ。

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