表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
未来屋古書店  作者: 倉木元貴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
14/49

老後の後悔 第3話

 ページがめくられる音は、やけに大きく響いた。次の瞬間、古書店の床が遠のく。

 男は、木の匂いに包まれていた。


 ――舞台裏。


 古びた緞帳の向こうから、ざわめきが聞こえる。

 笑い声、咳払い、椅子の軋む音。


 「……嘘だろ」


 男は、自分の手を見た。皺だらけだ。だが、マイクを握っている。

 袖口から、誰かが小声で言う。


「次、お願いします」


 心臓が、激しく打つ。


 ――逃げたい。


 頭の中で、若い頃と同じ声がする。

 今さらだ。恥をかくだけだ。

 だが、足は動いた。一歩。

 舞台に出た瞬間、ライトが眩しく、何も見えなくなる。

 拍手は、ない。ただ、静寂。

 男は、喉を鳴らした。


「……こんばんは」


 声が、震える。

 前列に、子どもたちが座っている。その後ろに、大人たち。

 好奇の目。半信半疑の顔。

 男は、深く息を吸った。


「私は……長い間、会社員でした」


 言葉が、少しずつ繋がる。


「特別な功績も、派手な成功もありません」


 だが。


「今日は、“失敗しなかった人生の話”をしに来ました」


 ざわめきが、起きた。

 男は、続ける。


「挑戦しなかった話です。怖くて、逃げ続けた話です」


 子どもたちの表情が、変わる。

 耳を、傾け始めている。


「皆さんには……」


 男は、マイクを握り直した。


「私と同じ後悔を、してほしくない」


 言葉は、拙い。

 話術も、洗練されていない。

 だが、嘘はなかった。

 語るたびに、胸の重りが、少しずつ外れていく。

 やがて、話が終わる。

 数秒の沈黙。


 ――やはり、だめだったか。


 その瞬間。

 小さな拍手が、聞こえた。一人の子どもが、手を叩いている。次に、もう一人。やがて、会場全体に拍手が広がった。

 男の目が、見開かれる。

 胸が、熱くなる。


 舞台袖で、スタッフが微笑んでいた。


「……また、お願いできますか?」


 場面が、ゆっくりと溶ける。

 古書店のランプの光が、戻ってきた。

 男は、呆然と立ち尽くしていた。


「……こんな未来が」


 声が、震える。


「本当に、あるんですか」


 老人は、静かに答えた。


「“成功”ではありません」


 だが。


「“納得”のある未来です」


 男は、本の白い余白を見た。

 そこに、かすかな文字が、浮かび始めている。

 白かった余白に、ゆっくりと文字が刻まれていく。

 それは、未来の記録ではなかった。

 過去の回想でもない。


 ――現在進行形の、選択。


 男は、喉を鳴らした。


「……これを書いているのは」


 老人は、穏やかに答える。


「あなた自身です」


 男の手を見ると、いつの間にか、万年筆が握られていた。

 指先は震えている。


「未来屋古書店の本は、未来を“決める”ものではありません」


 老人は続ける。


「未来を“選べる”と、思い出させるだけです」


 男は、深く息を吸った。


「でも……怖い」


 正直な言葉だった。


「また失敗したら、誰にも必要とされなかったら」


 老人は、少しだけ笑った。


「それは、もう経験済みでしょう」


 男は、はっとする。


「若い頃のあなたは、失敗を避けた。そして今、後悔している」


 老人は、ランプに目を向けた。


「では、失敗して後悔する未来は、どうでしょう」


 男の胸が、強く打った。


「……比べれば」


 声が、低くなる。


「今の後悔の方が、ずっと重い」


 老人は、頷いた。


「だから、人は老いてから挑戦するのです」


 男は、万年筆を見つめた。

 白紙に、最初の一文字を書く。


 ――話す。


 たった二文字。だが、胸の奥で、何かがほどけた。次の文字。


 ――失敗を。


 続けて。


 ――語る。


 書き終えた瞬間、本が、かすかに温かくなる。

 棚の奥で、別の古書が一斉に小さく鳴った。

 まるで、賛同するかのように。


「……書けた」


 男は、呆然と呟いた。

 老人は、静かに言う。


「これで十分です」


「十分……?」


「壮大な未来は、必要ありません。納得できる一歩があればいい」


 男は、本を閉じた。

 その表紙には、新しい題が浮かび上がっている。


 『老境の後悔 ――それでも語り始めた日』


 胸が、じんと痛んだ。

 だが、その痛みは、嫌なものではなかった。


「……外に出たら」


 男が尋ねる。


「この店は、消えるんですよね」


 老人は、いつものように、曖昧に笑った。


「必要なくなれば」


 男は、ゆっくりと立ち上がった。

 足取りは、来たときよりも、確かだった。

 扉を開けた瞬間、冷たい夜風が頬を打った。


 ――現実だ。


 古書店の中の、温かな光は背後にある。

 だが、振り返る勇気は、まだなかった。

 男は、ゆっくりと歩き出す。

 アスファルトの感触が、靴底から伝わる。

 街灯の下を、犬の散歩をする人が通り過ぎた。


 ――世界は、何も変わっていない。


 それなのに。

 胸の内側だけが、確かに違っていた。


「……やるか」


 小さく、呟く。


 翌朝。

 男は、珍しく早く目を覚ました。

 目覚ましが鳴る前だ。

 窓の外は、薄曇り。

 台所で湯を沸かし、湯気を眺めながら考える。

 何から始める?

 壮大な計画は、思い浮かばない。

 だが、本の中で書いた二文字が、胸に浮かぶ。


 ――話す。


 男は、新聞の隅に挟まっていたチラシを思い出した。

 昨日見た、公民館の掲示板。

 着替え、帽子を被り、外へ出る。足は、まだ少し震えている。


 公民館。

 入口のガラスに、張り紙がある。


『語り部募集 経験不問』


 男は、深呼吸した。

 受付の女性が、顔を上げる。


「ご用件は?」


 一瞬、喉が詰まる。

 だが、逃げなかった。


「……語り部の件で」


 言えた。

 女性は、驚いたように目を瞬かせ、すぐに微笑む。


「あ、ありがとうございます。こちらにお名前を」


 ペンを握る手が、震える。

 だが、書く。

 名前。

 年齢。

 簡単な動機。


 ――失敗を、語りたい。


 受付の女性は、紙を見て、頷いた。


「来週、打ち合わせがあります」


「……はい」


 男は、深く頭を下げた。

 外に出ると、雲の切れ間から、光が差していた。

 胸が、じんわりと温かい。


 その夜。

 自宅で、原稿用紙を広げる。

 一枚目に、何を書くか。男は、しばらく考え、ペンを走らせた。


 ――私は、挑戦しなかった。


 その一文に、逃げはなかった。

 だが、続けて書く。


 ――だが、今は違う。


 書き終えたとき、深く息を吐いた。

 恐怖は、まだある。だが。何もしなかった日々より、ずっと軽かった。

おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ