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未来屋古書店  作者: 倉木元貴


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老後の後悔 第2話

 本を開いた瞬間、文字は、紙の繊維の奥から滲み出すように浮かび上がった。

 古書特有の乾いた匂いが、ふっと鼻をかすめる。


 ――二十五歳。


 男の喉が、ひくりと鳴る。

 視界がゆっくりと波打ち、色が反転するように世界が歪んだ。

 気づくと、彼は狭い会議室に立っていた。


 古びた蛍光灯は、ジジ……と不規則に瞬き、白い光が机の上に冷たく落ちている。

 安っぽい長机の天板には細かな傷が走り、灰皿には吸い殻が山のように積もっていた。

 タバコの焦げた匂いと、緊張した若い男たちの体温が混ざり合い、空気は重く淀んでいる。


 ――あの日だ。


 新人研修の最終日。

 窓の外では、午後の陽がビルの壁に反射し、会議室の薄暗さをいっそう際立たせていた。

 配属先を決める前に、「今後やってみたいこと」を一人ずつ発表する場だった。


 若き日の自分が、前に立っている。

 黒髪はまだ艶があり、背筋はまっすぐ。

 目には、未来を信じて疑わない熱が宿っていた。


「……私は」


 声が震え、喉が乾いているのが伝わる。


「将来的には、人前で話す仕事に関わりたいと考えています」


 ざわつく空気。

 椅子がわずかに軋む音。

 上司たちの視線が、冷たい光のように交錯する。


「具体的には?」


 一人が問う。

 若い自分は、視線を泳がせながら言葉を探した。


「営業、広報、あるいは……研修講師のような形でも」


 沈黙。

 蛍光灯の音だけが、やけに大きく響く。


 やがて、乾いた笑いが起きた。


「君、現実が分かってないな」


「まずは、与えられた仕事をきちんとやりなさい」


「夢を語る場所じゃない」


 若い自分の肩が、目に見えて落ちた。

 それでも、まだ希望は消えていなかった。

 ――努力すれば、いつか。


 だが、場面は変わる。


 数年後。

 薄暗いデスクの上には、書類の山。

 蛍光灯の光は黄ばんで見え、時計の秒針だけが規則的に響く。

 同じ毎日。同じ業務。


 上司が声をかける。


「お前は、安定してるな」


 褒め言葉のはずだった。

 だが、その瞬間。

 胸の奥で、何かが乾いた枝のように音を立てて折れた。


 ――期待されていない。

 ――挑戦させる価値がない。


 そして、決定的な場面。


 社内のスピーチ大会の募集案内。

 掲示板の紙は新しく、蛍光灯の光を反射していた。

 若い自分は、その前で立ち止まる。


「……出てみるか?」


 心の中で、かすかな声がする。

 だが、次の瞬間。

 背後から同僚の笑い声。


「お前は、裏方向きだろ」


 軽い調子の言葉。

 だが、その軽さが刃物のように刺さった。

 若い自分は、何も言わず、掲示板から目を逸らした。

 申込用紙に名前を書くことはなかった。


 場面が暗転する。

 現実の男は、息を荒くしていた。

 古書店の薄暗い空気が、胸に重くのしかかる。


「……あれが」


 声が掠れる。


「分岐点、だったのか」


 老人は、静かに答える。


「ええ」


 本のページが、さらにめくられる。

 紙が擦れる音が、妙に大きく響いた。


 そこには、もう一つの影が映っていた。


 同じ年齢。同じ顔。

 だが、表情が違う。

 スポットライトの下で、人前に立ち、言葉を紡ぎ、拍手を浴びている“もう一人の自分”。

 成功者というほどではない。

 だが、目は確かに生きていた。


 男は、唇を噛みしめた。


「……もし、あの時」


「選ばなかった未来です」


 老人の声は淡々としていた。


「失敗を恐れて、挑戦しなかった未来」


 男は、震える息を吐いた。


「……取り戻せない」


「いいえ」


 老人は即座に否定した。

 ランプの炎が、わずかに揺れる。


「同じ形では、取り戻せません」


 だが、と続ける。


「意味は、今からでも変えられる」


 男は、本の余白を見つめた。

 白い紙は、静かに光を反射している。

 だが、その白さが、残酷に見えた。


 ――老いてから、何を足す。


 その問いが胸に刺さる。

 余白は何も語らない。

 だが、書けないわけではない――そんな気配だけが漂っていた。


「……今さら、ですよ」


 男はかすれた声で言った。


「六十五です。定年を迎えて、体力も衰えて……」


 自嘲気味に笑う。

 古書店の窓の外では、夕暮れが街を赤く染めていた。


「人前に立って話す? 笑われますよ」


 老人は反論しなかった。

 ただ、ランプの火芯を少しだけ調整し、光を柔らかくした。

 その光は、男の皺を優しく照らした。


「人は、失敗を二種類に分けます」


「二種類……?」


「やった結果の失敗と、やらなかった失敗です」


 男は、わずかに眉を動かした。


「前者は、時間と共に古びます。語れる思い出になる」


「後者は、沈殿します。年を取るほど、重くなる」


 胸の奥が、ずしりと鳴った。


「あなたが背負っているのは……」


「……やらなかった方、ですか」


 男が言うと、老人は静かに頷いた。


 本が再び震えた。

 ページの白が波打ち、映像が浮かび上がる。


 ――現在。


 自宅の居間。

 薄暗い照明。

 テレビの音だけが空間を埋めている。

 無言の夕食。

 男は椅子に深く腰を下ろし、天井の染みをぼんやりと見つめていた。


「今日も、何もしなかったな」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 次の場面。

 公民館の掲示板。

 古い木枠は色褪せ、ガラスには指紋が残っている。


『地域歴史講座 語り部募集』


 紙は少し黄ばんでいた。

 映像の中の男は、一度は立ち止まる。

 だが、すぐに背を向ける。


「……どうせ、俺なんか」


 その背中は、ひどく小さかった。


 現実の男は、思わず目を伏せた。


「やめてくれ……」


 だが、本は容赦なく続ける。


 時間が進む。

 足腰が弱り、外出も億劫になる。

 掲示板の前に立つことすらなくなる。


 やがて、病室。

 白い天井。

 消毒液の匂い。

 誰もいない。


 看護師が事務的に告げる。


「何か、伝えたいことはありますか?」


 男は口を開く。

 だが、言葉は出ない。


 映像が静かに消えた。


 古書店に戻る。

 男の頬を、涙が静かに伝っていた。


「……これが、“何もしなかった未来”か」


 老人は静かに肯いた。


「避けられる未来です」


 男は震える手で、本の縁を掴んだ。


「……じゃあ」


 喉が鳴る。


「“今からやる未来”は……?」


 老人は、何も言わず、次のページをめくった。

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