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未来屋古書店  作者: 倉木元貴


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老後の後悔 第1話

 夜風が、思った以上に冷たかった。

 男は、コートの前を閉め直し、ゆっくりと歩いていた。

 白髪が混じり始めた頭を、無意識に撫でる。もう、若くはない。

 

 ──定年。


 その二文字が、ここ数日、頭から離れなかった。

 長年勤めてきた会社。

 大きな成果を挙げたわけでも、高く出世したわけでもない。ただ、無難に、静かに、欲をかかずに、言われた通り働き続けた人生。

 悪くはない人生だったが、それが、終わった。

 

「……こんなはずじゃなかったんだがな」

 

 誰に向けるでもなく、つぶやく。

 返ってくるのは、自分の足音だけだ。

 

 若い頃、夢がなかったわけではない。

 人前で話すこと。物語を作ること。自分の言葉で、誰かの心を動かすこと。誰かの役に立てる仕事がしたい。

 だが、そのたびに、現実が囁いた。

 

 ──食えないぞ。

 ──今さら何を言っている。

 ──安定が一番だ。


 男は、その声に従った。

 間違いではなかったはずだ。家族を養い、責任を果たした。

 それでも。

 定年を迎えた今、胸の奥に、ぽっかりと穴が空いている。

 

「……何かに挑戦したかったな」

 

 それが失敗なのだと、今さらながら気づく。

 街灯の下で足を止めた。

 ガラスに映る自分の顔は、思っていたよりも老けて見えた。

 

 ──もう、何をするにも遅い。


 その言葉が、何度も頭に浮かぶ。


 今から何を始める。

 誰が、話を聞く。

 誰が、期待をする。

 家族に迷惑がかかるくらいなら……。

 

 夜の街は、若者の声で賑やかだった。

 笑い声が、遠くで弾ける。

 男は、少しだけ視線を逸らし、路地へと入った。

 賑やかな通りから外れると、音は急に遠ざかる。

 霧が、薄く立ちこめていた。

 

「……?」

 

 突然のことで困惑する。

 男は足を止める。

 

 こんな場所に、霧が出るはずがない。

 だが、確かに、空気が違う。まるで、森にでも迷い込んだようだ。

 

 その奥に、淡い灯りが揺れていた。

 懐かしい色の光。

 古いランプのような、柔らかな灯り。

 

「……店、か?」

 

 路地の奥に、小さな古書店があった。

 何年も同じ道を通っているが、見覚えはない。

 だが、なぜか、胸がざわつく。

 擦り切れた看板には、静かな文字。

 

 ──未来屋古書店。


 男は、その名前を、ゆっくりと読み上げた。

 

「未来、か……」

 

 苦笑が漏れる。

 自分には、もう縁のない言葉だと思っていた。

 扉の前で、しばらく立ち尽くす。

 帰ろうと思えば、すぐに帰れる。

 それでも。

 

 男は、扉に手をかけた。

 扉の軋む音とともに、古書店の中へ足を踏み入れる。

 その瞬間、胸の奥に沈んでいた後悔が、静かに動き始めた。

 

 古書店の中は、外の夜よりも静かだった。

 ランプの灯りが柔らかく、棚に並ぶ本の背表紙が、影の中に溶け込んでいる。

 男は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……何だか、落ち着くな」

 

 思わず、そんな言葉がこぼれた。

 

「そう言われる方は、多いです」

 

 カウンターの奥から、低く穏やかな声が返ってくる。

 顔を上げると、そこには老人がいた。

 白髪を後ろに撫でつけ、深い皺が刻まれた顔。年齢はわからない。だが、長い時間生きてきたことだけは、はっきりと伝わってくる。

 その膝の上では、三毛猫が丸くなって眠っていた。

 

「……こんばんは」

 

 男は、ぎこちなく会釈をした。

 

「ええ、こんばんは」

 

 老人は、ゆっくりと頷いた。

 

「未来屋古書店へ、ようこそ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、男の胸がわずかに軋んだ。

 

「……未来、ですか?」

 

 苦笑が漏れる。

 

「私には、もう未来なんて──」


「ありますよ」

 

 老人は、遮るように言った。

 声は強くない。だが、迷いがなかった。

 男は言葉を失った。

 

「……定年を迎えましてね」

 

 しばらくして、男は語りを始めた。

 

「仕事一筋で生きてきました。大したことは、何もしていませんが……」

 

 老人は、黙って聞いている。

 

「気がついたら、この歳です」

 

 男は話しながら、店の中を見渡す。

 

「若い頃、やりたかったことがありました。人前で、話すことです」

 

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥に、何かが蘇った。

 

「芝居でも、語りでも……形は何でもよかった。落語なんかもいいですかね。ただ、自分の言葉で、誰かの心を動かしてみたかった」

 

 だが、と男は続ける。

 

「現実は、そう甘くなかった」

 

 仕事、家庭、責任。

 期待、失敗、不安。

 

「挑戦できなかったんです」

 

 静かな告白だった。

 男は視線を落とす。

 

「……いや、正確には……失敗するのが怖かった。責任を負いたくなかった」

 

 その言葉に、老人はゆっくりと頷いた。

 棚の奥で、何かが軋む音がした。

 

「失敗しなかった人生は、一見安全に見えます。ですが……」

 

 老人は静かに言う。そして言葉を区切り、息を整えた。

 

「選ばなかった未来もまた、失敗として残る」

 

 男は、息を呑んだ。

 

「……そんなことは、わかっていたさ。でも……」

 

「考えないようにしていた」

 

 老人の言葉は、責めるでもなく、慰めるでもなかった。

 その時だった。

 棚の一角から、淡い光が漏れ始めた。

 

「……何だ?」

 

 男が問う前に、一冊の古書が、ひとりでに引き抜かれ、カウンターの上に置かれる。

 表紙には何も書かれていない。

 

「それは……」

 

 老人は、その本を見つめた。

 

「あなたの失敗録です」

 

 男は、息を詰まらせた。

 

「……失敗、だと」

 

 老人は、本をゆっくりと開いた。

 次の瞬間、店内の空気が、静かに、しかし確実に変わった。

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