夢を捨てたバンドマン 最終話
音が店に溶けて消えたとき、老人は静かに言った。
「あなたが諦めるたびに、音は遠ざかります。しかし……消えたりはしない。音は“あなたが選び直す”のを待っているのです」
玲央は顔を上げた。
老人は続ける。
「未来に立つあなたは、大きなステージにいるかもしれない。あるいは、小さな部屋で泣いている誰かの前にいるかもしれない。どちらが正解ということはありません。ただ一つ、確かなのは──“音は、あなたを裏切らない”ということです」
玲央は唇を噛んだ。
胸の奥に、温かい灯りがひとつ、確かに灯っていた。
「俺……もう一度だけ、弾いてみたい。自分の……未来の音を!」
老人は深く頷いた。
「ええ。選ぶのはあなた自身です。未来屋古書店は……ただ背中を押すだけですから」
店を出ると、さっきまで降っていた雨はすっかり上がっていた。
濡れた地面が街灯を反射し、夜の道を黄金色に光らせている。
玲央は、ギターケースを背負い、深く息を吸い込んだ。
──この空気、久しぶりだな。
湿った雨の匂い。
遠くの踏切の音。
通り過ぎる風。
全部が、さっきの古書店で聴いた音と重なっていた。
歩きながら、指先が落ち着かず、無意識にストラップを撫でる。
胸の中には、さっき聞いた“未来のライブ”の残響がまだ残っていた。
観客席で泣いていた女性の声。
「救われたんだよ」という震える言葉。
──俺に、そんな音が出せるのか。
不安もあった。
でも、それ以上に。
「もう一度だけ、弾きたい」という気持ちの方が大きかった。
雨上がりの匂いが立ち込めて、夜風の冷たさを肌で感じた。
歩いていると、視界の端で、自転車を押している女子高生が立ち止まっていた。
サドルに座り、顔を伏せている。
肩が小さく揺れて、泣いているようだった。
玲央は一瞬迷ったが、何気なく近寄る。
「……大丈夫?」
女子高生は顔を上げた。
涙を拭いながら、無理に笑う。
「全然大丈夫じゃないけど……でも、平気。慣れてるから」
玲央は、昔の自分を見ている気がした。
「……帰れる?」
「……帰れる。ありがとう」
それだけ言うと、彼女は自転車を押して歩き出した。
泣き顔のまま、でも真っ直ぐに。
玲央の手が、自分のギターケースのストラップを握りしめる。
──誰かの涙に、何もできないままだった。
──でも、音楽なら……いつか。
さっき古書で見た未来の青年の姿と重なる。
部屋で泣いていた若者に、未来の自分は寄り添えていた。
玲央の胸が、ゆっくり温かくなる。
「……やっぱり、弾きたいな」
自宅のマンションに戻ると、薄暗いワンルームが迎えてくれた。生活音はなく、静かで、空気は冷え切っていた。
洗いっぱなしの食器。
飲みかけのペットボトル。
布団が乱れたベッド。
いつもと同じ散らかった空間なのに、どこか違って見えた。
玲央はギターをケースから取り出し、膝に構えた。
深呼吸する。
「……よし」
指に弦が触れる。
音を鳴らしてみるが、下手だ。
手も震えている。
音も濁る。
けれど、涙がこぼれた。
「……くそ……やべえ……」
笑いながら泣いていた。
どれほど弾いても不安定な音しか出ない。
でも。
その夜。玲央はずっとギターを弾いていた。
何もない部屋で。
誰も聞いていない音を鳴らしながら。
未来で見たライブの曲を、忘れないように。
夜が更け、玲央はベッドに倒れ込んだ。
テーブルの上には、店でもらった古びた栞が置かれている。
『未来屋古書店』と小さく書かれた木製の札だ。
その裏側に……いつの間にか、文字が浮かび上がっていた。
──音は、あなたを裏切らない。
あなたが裏切らない限り。
手書きのようで、しかし見覚えがない筆跡。
玲央は、もう一度だけギターに手を伸ばした。
柔らかい一音が鳴る。
その一音が、部屋中に染み渡るように響いた。
「……よし、やる」
誰に向けた言葉でもない。ただ、自分自身に向けた宣言だった。
♢♢♢
翌朝。
玲央は起きると、まずギターケースを肩にかけた。
仕事の前に、ちょっとだけ寄りたい場所があった。
古びたライブハウスの前。
何度も出演し、何度も恥をかき、最後に「もう来ないでください」と言われた場所。
看板の前に立ち、玲央は小さく呟いた。
「もう一度だけ……お願いします」
勇気を振り絞って、扉を開く。
受付にいる店長が、驚いたように顔を上げた。
「……お前、久しぶりじゃないか」
玲央は一度唾を飲み、頭を下げた。
「また……弾かせてください。前みたいに前座でもいいです。でも弾きたいんです」
店長はしばらく玲央を見つめ──
ふう、とため息を吐いた。
「一回だけなら、空いている日がある。……本当に、やるんだな?」
玲央は迷わなかった。
「はい。未来の俺に、胸張れるように」
店長は笑った。
「……だったら、やってみろ」
その瞬間、玲央の胸で何かが強く灯った。
ライブの日程を書いた紙を受け取り、店を出る。
光る朝の街。
冷たい風。
ギターの重み。
全部が“未来への道”のように感じられた。
玲央は青空を見上げ、空に笑った。
「行くぞ……俺の“未来の音”」
その足取りは軽かった。
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