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未来屋古書店  作者: 倉木元貴


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17/49

嘘と手紙

 夜風が、少しだけ冷たかった。

 秋が深まり、街灯の下を歩くたびに、吐く息が白く揺れる季節になっていた。


 仕事帰りのサラリーマンたちの声が途切れ、その裏側をすり抜けるようにして、一人の少女が歩いていた。

 黒いパーカーのフードを深く被り、手には小さなリュック。歩調は一定だが、足取りは軽くない。どこかを目指しているようでいて、どこにも辿り着けないような歩き方だった。


 「……寒い」


 袖の中に両手を隠しながら、少女――美紅みくは呟いた。

 家を出てからもう六時間。行くあてはない。


 駅前のパン屋で買った安いクロワッサンをかじりながら、彼女は通りの向こうに光るネオンを見つめた。

 「困ったら警察に行きなさい」だとか「家族に連絡しなさい」という標語が、街の掲示板からこちらを見下ろしている。


 美紅は、それを無視して歩いた。


 家に戻る気はなかった。

 戻れるはずもなかった。


 ——あの手紙を置いてきたのだから。


 胸のポケットに忍ばせたコピー用紙の感触が、歩くたびに胸を刺した。

 走り書きの文字が脳裏に浮かぶ。


 (お母さんへ

  もう、私のことは気にしないでください。

 全部、私が悪いから

 だから出ていきます)


 書いたときは、これで良いと思った。

 自分が消えれば、迷惑もかけずに済むと。


 でも今は、その一文字一文字が鉛のように重かった。


 「……ほんと、バカだな、私」


 苦く笑うと、急に視界が滲んだ。

 泣きたくない。泣いたら負けだ。

 そう思って、顔を伏せたときだった。


 ふいに、前方の路地に“灯り”が揺れた。


 え……? こんな場所に店なんてあっただろうか。

 通り慣れた道だったはずなのに、見た覚えがない。


 吸い寄せられるように近づいていくと、

 そこには古びた木の扉があり、看板がかすかに明かりを反射していた。


 『未来屋古書店』


 読んだ瞬間、不思議と胸がきゅっと締めつけられた。


 美紅は、迷わず扉を押していた。


 「……わぁ」


 店内は暖かかった。

 ランプの光がふわりと広がって、古い紙の香りが漂ってくる。

 その香りが、胸の奥の硬くなった部分をそっと溶かすようだった。


 「いらっしゃいませ」


 奥から穏やかな声が聞こえた。

 机には初老の店主が座り、その膝の上には三毛猫が丸くなっている。


 「こんな時間に若いお客さんとは……珍しいですね」


 美紅は思わず警戒した。

 しかし店主の眼差しには、下心も好奇心もなかった。

 ただ“誰かを心配する大人の眼”だった。


 「……寒かったでしょう。よければ、どうぞ」


 差し出されたカップには、湯気の立つ緑茶が入っていた。

 美紅は受け取るか迷ったが、冷えた指先が勝手に温かさを求めた。


 「ここ……本屋さんなんですか」


 「ええ、“未来の本”を扱う店でしてな」


 「みらい……?」


 店主は微笑んだ。


 「もしよろしければ、お話を聞かせてくれませんか。ここは――“失敗談”を預かる古書店です」


 その言葉に、美紅は肩を震わせた。


 失敗談。

 それなら、山ほど持っている。


 彼女はゆっくり、椅子に腰を下ろした。


 「……家、出てきたんです」


 ぽつりと、言葉が落ちた。


 最初は単なる友達同士の言い合いだった。

 “誰かを傷つけるためではなかった言葉”が、いつの間にか大きな誤解を呼び、SNSで拡散され、炎上した。

 学校にも行きづらくなり、家でも母親と言い合いが続くようになった。


 「私、ひどいことして……。友達も失って、学校でも悪口言われて、家でも迷惑かけて……」


 声が震えて、目元が滲む。


 「居場所、なくなっちゃったんです。だったら、私なんていないほうがいいと思って」


 店主は静かに頷きながら話を聞いていた。


 「──それで、家出を?」


 美紅はうつむき、小さく頷いた。

 胸ポケットの手紙の感触が、また胸を刺した。


 「……戻れないんです。

  あんな手紙、置いてきちゃって」


 そこで店主は、一冊の古書を机の上に置いた。


 表紙には、古い筆記体でこう書かれている。


 『未来の手紙』


 「この本を開いてごらんなさい。あなたの“失敗の行き先”が、そこに映るかもしれません」


 美紅は震える指先でページをめくった。


 ランプの光が揺れ、世界が溶けるように歪んだ。

 次の瞬間、暗い部屋と、ひとり座り込む女性の姿が浮かび上がった。


 美紅は息を呑んだ。


 ——お母さん。


 その手には、ぐしゃぐしゃに握られた一枚の紙がある。

 美紅が残した手紙だ。


 母は顔を覆い、声を押し殺して泣いていた。


 『どうして……どうしてこんな手紙を置いていくの……?あなたがどれだけ大事か、ちゃんと言えてなかった……?』


 涙がぽたぽたと落ちていく。

 震えながら、母はスマホを握り締め、娘の名前を何度も検索していた。


 (家出した女子中学生)

 (トラブル)

 (事故)

 (危険な誘惑)


 恐怖と後悔で、母の手が震えていた。


 美紅の胸がきゅっと縮まった。


 (……お母さん、そんな顔してたの?)


 いつも強くて、叱ってばかりで、厳しくて。

 でも今、目の前にいる母は、ただ娘を失うことを怖がって泣いていた。


 『美紅……戻ってきて。

  あなたがいないなら、私は……』


 その声は、霧がかかったように震えていた。


 美紅は、息もできないほど胸を締めつけられた。


 (私……こんなこと、望んでなかった……)


 幻影は静かに薄れていき、古書店の光が戻ってきた。


 美紅は顔を伏せて泣いた。

 肩が震え、涙がぽたぽたと机を濡らした。


 「……お母さん……あんなふうに……」


 店主はそっと紅茶を差し出した。


 「人は誰かを傷つけたり、誤解されたり、失敗したり……。でも、『離れて初めて分かる大切さ』というものもあるのですよ」


 美紅は袖で涙を拭き、震える声で言った。


 「……戻りたい。怖いけど……帰りたいです」


 店主は優しく頷いた。


 「あなたが帰ると決めた瞬間から、未来は変わり始めます。手紙を置いてきたからといって、道が閉ざされるわけではない。“帰る勇気”もまた、未来を作る一歩なのです」


 その言葉に、美紅は目を閉じて深く息を吸った。

 胸の奥の重りが、少しだけ軽くなる。


 そのとき、膝の上の三毛猫――ワラが小さく「にゃあ」と鳴いた。


 店主は微笑んだ。


 「ほら、ワラも応援していますよ」


 美紅は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま笑った。


 「ありがとう……ございます」


 店を出ると、夜風はまだ冷たかった。

 だが、心の中に灯った小さな火が、その冷たさを和らげていた。


 美紅はスマホを取り出し、震える指で母の番号を押した。


 コール音が一度響く。

 すぐに、泣きそうな声で電話がつながった。


 『み、く……!?』


 美紅は深く息を吸った。


 「……ごめん。帰っていい……?」


 電話越しの泣き声が、夜空の下まで響き渡った。


 美紅は歩き出した。

 まだ怖い。

 でも、帰りたい場所がある。


 街灯の下を通り過ぎ、振り返る。


 ……『未来屋古書店』は、もうどこにもなかった。


 でも、胸の奥にだけは、確かに灯りが残っていた。

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