第2話 「老獪なる創業者の挑戦状」
その日の朝、三鷹は株式会社YUZUNOKI本社三階の会議室で、父・誠司と次兄・二晴を待っていた。
誠司がまだ来ていないのはわかる。しかし、こういう場面でいつも遅れてくるのは決まって二晴だった。人を待たせることを潔しとせず、約束の時間より十分以上前にいるのが当然の三鷹にとっては、それだけで小さな苛立ちが胸の内に芽生えていた。
「親父がまだ来てないのはわかるが……二晴は何してんだ?」
三鷹は、対面に座ってノートパソコンに向かっている長兄・一誠に声をかけた。
「まだ九時まで十分ある。それまでに来るだろ」
一誠は三鷹を一瞥もせず、落ち着いた口調で答えた。
「遅れてくることで、自分が大物だって思わせたいんだろ」
その皮肉めいた言葉に、一誠は小さく苦笑した。一誠もその通りだと思ったのだ。一誠の目から見ても、弟の二晴は仕事ができる男だと見えなかった。そして、そのぶん自己演出には余念がない。部下の手柄を自分の采配として大きく見せる――それが二晴の仕事だった。本人は気づいていないが、一部の社員のあいだで「にはるさん」ではなく、「みえはる(見栄張る)さん」と呼ばれていることも一誠は知っていた。
「ところで一誠兄は、俺が財産を分けてもらうことに、何も思わないのか?」
三鷹は遠回しな物言いを好まない。率直で、時に棘のある物言いをためらわない。無駄を嫌い、核心を突く。一誠はこの弟が苦手であった。正確に言えば、苦手になったのだ。
子どもの頃は、出来の悪い弟だと思い込んでぞんざいに扱ってきた。一誠がYUZUNOKIに入社して再開した後も、雑用を押し付け、軽く見ていた。しかし、今やその弟と対峙するだけで戸惑ってしまう。認めたくないことだが、否定することもできなかった。
「同じ兄弟なんだから、別にいいだろ」
「本当に?財産を分けるってことは、YUZUNOKIの株を俺が持つことになるんだぞ。ほんとにいいのか?」
三鷹は不敵な笑みを浮かべながら、ミーティングテーブル越しに一誠の顔を覗きこむように見た。
「別に構わない」
一誠は少し語気を強めて答えた。それを聞いて、三鷹はふっと鼻で笑い、背もたれに身を預けた。親父の財産なんて当てにしたことなどないが、株を分けてくれるというなら有効活用させてもらおうか――と考えていた。だが本音を言えば、株より現金か不動産の方が良かった。今日の目的はそこにある。分け前は少なくても構わない。できれば現金か不動産でと交渉するつもりだった。その方が一誠も二晴も良いと考えるだろう。
もしこの場に誠司がいて、二人の会話や空気の流れを見ていたなら、これから実行しようとしていた“三兄弟へのテスト”を止めていた可能性は高かった。三鷹は野心家になってしまっている。誠司には、それは少し成功した若手経営者にありがちな“驕り”と見えただろう。三鷹に会社を託すのはやはり危うい。それなら長年働いている一誠と二晴に託す方が良いと考えた筈だった。
だがこの時点で、誠司は三鷹の顔を見ていなかった。九年前の独立以降、顔を合わせて話したことはほとんどなかった。先日の電話が実に数年ぶりの声だったほどだ。三鷹の人物像は、誠司にとって“噂で聞いたもの”にすぎなかった。
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「二晴は、まだ来ていないのか?」
時間ぴったりに会議室のドアが開くと同時に、室内を見渡した柚木誠司が低い声で言った。背後に控えていた秘書に「すぐに来るよう伝えろ」と指示を出すと、そのままミーティングテーブルの上座に腰を下ろした。
次いで入ってきたのは、分厚い資料を腕に抱えた、香川税理士事務所の所長・香川慎一である。YUZUNOKI設立当初からの付き合いであり、柚木家の資産や会社の財務を深く知る人物だ。香川は、仕立ての良いスリーピースのスーツを着こなした、洗練された紳士風の男だった。若い頃はさぞ女性にモテたであろう整った顔立ちに、年齢相応の落ち着いた貫禄が加わっている。
「おはようございます」
「……おはようございます」
一誠が誠司に挨拶をしたのを見て、三鷹も挨拶をした。誠司は軽く頷いただけで、すぐに話を切り出した。
「二晴はまだ来ていないが、早速話をしようと思う。相続についてなんだがこないだ話した通り3人にそれぞれ財産を分ける……と思ってたんだが、香川君と話をしてちょっと考え直した。最初は会社を部門ごとに分割してそれぞれ経営させてと思ったんだが、やっぱり1人に継がせて統括させた方がいい。会社を分割させて継がせるとろくなことにならんからな。昔からよく言うだろ?たわけ者と。田を分けて相続させることほど愚か者はいない、という意味だ。それに相続税のこともあるしな。で、じゃぁ誰に継がせるかという話なんだが――」
三鷹は、まくし立てるように話す誠司の姿を見て、
――やっぱりな
と内心呟いた。この親父が、何の条件もつけずに財産を分けて終わりにするなど、あり得ない。甘い話を餌に興味を引き、いざ具体的な段階に入ると、必ず条件を突きつけてくる――それがこの親父の常套手段だ。しかし、既に何年も前から独立独歩の三鷹にとって、そんな父のやり口はもはや軽く受け流せるものだった。
だが、対面に座る一誠は違った。専務取締役――それは、誠司の後継として既に既定路線だと思われていた。長年YUZUNOKI一筋で働き、社内の信頼も積み重ねてきた。今日の会議も、弟たちにどれほどの財産が分配されるのか、相続の調整の場だと捉えていた。
それが、だ。「継がせるのはお前ではない」と突き付けられた形であった。そして、それを目の前に座る三鷹の存在がより強めていた。それらが、一誠の肩に重くのしかかるようだった。
「ここからは私が具体的に説明させて頂きますが、それは二晴さんが来られてからの方が――」
と香川が発言すると同時に、二晴が会議室に入ってきた。
「あー、お疲れっす。遅れた。朝ここに来る前にさ、部下にちょっと指示出してたら長引いちゃって」
二晴はいつもの調子で会議室に入るなり、ラフな挨拶と共に誠司の横にある椅子へと腰を下ろした。言葉の端々に、自分は指示を出す側――つまり“上に立つ人間”であるというニュアンスが滲んでいた。三鷹はその様子を横目で見ながら、心の中で苦笑した。
(部下に指示を出すことなんて、あるのかよ?)
心の中でそう呟きつつも、顔には出さなかった。
三鷹の広告デザイン事務所で、二晴が担当するマーケティング事業部から仕事を受けており、三鷹は二晴が社員から「みえはるさん」と呼ばれていることを知っていた。そして、二晴は二晴で、弟に仕事を与えてやっているという認識だった。しかしYUZUNOKIのマーケティング事業部から、彼の広告デザイン事務所に仕事が回ってきているのは二晴の采配によるものではなかった。
むしろ逆だった。マーケティング事業部の部長に就任した二晴は、仕事を抱え込むだけ抱え込んで何もしなかった。しかし、いつも忙しそうにして、仕事をしているつもりの二晴の扱いに困ったマーケティング事業部のスタッフが、
「三鷹さんに仕事を分けて助けてあげましょうよ。独立したばかりで暇でしょうし」
と二晴に持ち掛け、業務が進むよう二晴から仕事を取り上げたのが始まりであった。以来、マーケティング事業部の業務は、三鷹の会社とYUZUNOKIの現場スタッフが半ば融合する形で進められていた。しかも、三鷹からすれば利益はほとんど出ない破格の低予算だった。YUZUNOKIの社員達から泣きつかれた格好だったのだ。
二晴はというと、「親父に内緒で弟に仕事を与えてやってる」と、上から目線で捉えていた。反対に三鷹は、大して金にもならない仕事だが、YUZUNOKIの社員達は助けてやらなくてはならい――と思いながら請け負っていた。互いの認識は、見事なまでに食い違っていた。
「お前はいつも会議に遅れてくる! いい加減にしろ!」
誠司の声が会議室に響いた。隣に腰を下ろした二晴に向けられた怒った声は、当然の指摘ではあったが、三鷹の内心には別の苛立ちが芽生えていた。
(言うことはそれだけかよ。なんで親父の隣に当たり前みたいに座ってることを咎めないんだ?)
三鷹の真正面に座る一誠は、その様子にも動じた素振りを見せない。もはや慣れっこといった顔で、無表情のままパソコンに目を落としていた。親父が叱らないのなら一誠兄が叱るべきじゃないのか。これは確かに財産分割するとなると先が思いやられるな――。三鷹は深く椅子に腰を沈め、不機嫌になっていた。
「それでは説明を始めたいと思います」
顧問税理士の香川が静かに口を開いた。誠司の右隣に座るその男は、YUZUNOKI設立当初からの付き合いであり、同族経営の舞台裏を熟知する存在でもある。分厚い資料を手際よくめくりながら、香川は会社の概要、現状、株式の評価額、そして相続に際しての想定シナリオについて丁寧に説明していった。
「特に問題となるのは相続税です」
社長交代した際の社内外の問題には触れず、税金が問題だとはっきり言うのは税理士らしかった。だが、確かに相続税がネックになることは確かであった。YUZUNOKI――スーパーマーケットを30数店舗展開し、年間売上400億円超。株式評価額は約100億円にのぼる。
「実際に課税対象となる評価額は、70億円程度と見込んでおりますが――」
と香川は言ったが、それでも相続税は概算で35億円を超えることになる。単純に三分割すると、一人あたりおよそ約12億円。現金で支払えるはずがない金額だった。香川の説明に黙して耳を傾ける一誠と三鷹に対し、二晴は一人、慌ただしく口を挟み続けていた。
「行政の相続支援制度とか、何か使える手はないのか?」
「もっと株の評価額を下げる裏技みたいなの、ないの?」
「延納とか物納とかさ、そういう制度を使えば何とかなるんじゃないのか?」
矢継ぎ早に飛び出す言葉に、香川は表情一つ変えず、理路整然と応じていく。一誠も三鷹も、そのやり取りを冷ややかに眺めながら、同じことを考えていた。その程度のことを親父と香川が考えてないわけがない。重要なのはこの説明の後、香川が、いや、親父が何を言い出すかだ――と。それが、今後を左右する。
「不動産の物納や延納も検討しましたが、結局はYUZUNOKIの財務体力を大幅に削ることになります」
香川の言葉尻を、誠司が引き継いだ。
「さらにだ」
誠司の語気は落ち着いていたが、その内容は三人兄弟には厳しかった。個人としての財産――いくつかの不動産、そして現金は一億数千万円程度。資産の九割以上はYUZUNOKIの株式ということだった。
「もう俺に現金は要らないからな」
誠司には確かにそうだろう。現金がなくても生活に困ることはない。一億円でも多いくらいだった。しかし相続税のことを考えれば、それは大きな問題だった。
――詰んでるな。
三鷹の率直な感想だった。そしてここまで説明されたら誠司の考えることは読める。一誠も同様だった。
「結局……税金三十五億円の資金調達をしてこいってことでしょ?」
あきれ混じりの口調でそう言った三鷹に、誠司はニヤリと笑って返した。
「そうだ。その資金を調達してこられる奴に、会社を継がせる。そりゃそうだろう?それだけの力があるってことだからな」
その言葉は明らかに挑発だった。三人の息子たちそれぞれに、覚悟と手腕と野心を試している。
三鷹にとっては難題であった。親の会社を継ぐために三十五億円――その金をどうやって用意しろというのか。銀行に「親の会社の相続税を払うから貸してくれ」と頼んでも、YUZUNOKIの現経営陣でもなく、社内実績もない三鷹に、そんな巨額を貸してくれるはずもない。では、ベンチャーキャピタルどうか。たしかに百億円規模の企業を三十五億円で買収できるという理屈は、投資家にとって魅力だ。だが、それはつまり、長期的に見れば会社がそのまま投資家のものになることを意味する。
そして二晴にとっても、これはまったく現実味のない話だった。二晴は「そんな額、無理に決まってる!」と喚き散らしていた。
対照的に、一誠は冷静だった。――むしろ、ほっとしているようにも見えた。専務取締役として長年会社に尽くしてきた実績がある。社内でも、社外でも、一誠が次期社長になることは既定路線として受け止められていた。個人的な取引先銀行との関係は大してなかったが、それでも不可能ではない話だった。
誠司の“試験”に対し、三人の息子はそれぞれの受け止め方をした。一誠は、これは父なりの形式だと理解した。要するに、形式的に条件を出すことで他の兄弟との公平感を保ちつつ、最終的には自分が選ばれることになっている。そう受け取った。
二晴は、一誠が継ぐことは最初から分かっていたと割り切りつつ、せめて何億円かでも用意して、“俺も一応できるぞ”と見せてやろうと考えた。相変わらず表面だけを整えようとする性分だった。
そして三鷹は――これは明らかな挑戦状だと受け取った。
「お前は会社を作って少し上手くいってるようだが、三十五億円を用意できないレベルだろう?俺なら用意できるぞ。その程度のやつに会社を継がせることはできん」――と誠司に言われているに等しかった。
親の会社を継ぐ気など初めからない。親の遺産など当てにしたこともない。だが、この話を「気に入らない」と蹴るには許せる性格ではなかった。金額の大きさではない。経営者としての話だ。
また冷静に三十五億円で百億円企業を買収できると考えれば、それはそれで経営者として、魅力的な話だった。百億円の会社を三十五億円で買う――資金調達さえできれば、これは明らかに好条件のM&Aだ。冷静に見れば、魅力的な話。問題は、それを実現できる器かどうか――。
三鷹は、無言で顎に手を当て、思考の底に潜った。
「それじゃ、そういうことで、いいな?それで……そうだな、一ヶ月以内には三十五億をどうやって調達するか、具体的なプランをそれぞれ持ってきてくれ」
口調はあくまで軽やかでランチのメニューを決める程度の気安さだった。
「じゃ、そういうことで。あ、何かわからんことがあったら香川君に聞いてくれ」
椅子の背に体を預けていた誠司が、席を立ち、そう言い残すと、会議室のドアへと歩き出した。背広の背中がふっと浮いた。長年の現場で鍛えた、威圧感を内に秘めた背中。だがこの時は、どこか浮かれているようにも見えた。まるで、三人の息子たちが目の前でどんな動きを見せるのか、それを楽しんでいるかのような、老獪な勝負師の背中だった。




