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第3話 「才媛・冬川景子/英才・桜庭慎司」

 大手銀行に勤めて六年目になる冬川景子は、2006年入社組の中でも群を抜いた存在だった。


 入社後まもなく、社内研修の一環として一時的に配属された企業買収チームで、彼女は早くもその非凡さを露わにした。抜群の情報処理能力とリサーチ力を発揮し、提出した最初のレポートで周囲を驚かせたのだ。

 しかも、それは明確に指示されて作成したレポートではなかった。まだ何もできない新入社員に「とりあえずこの会社の資料を見て整理しておいて」と先輩から言われただけだった。しかし出来上がったのは一部の修正だけでクライアントに提出できる完成度のレポートだった。それを見たチームメンバーに静かなざわめきが広がった。


 「これ、本当に新卒が……?」

 「……マジか」

 「なあ、これ、本当に彼女が作ったのか?」


 リーダーはすぐに彼女を呼び、問いただした。


 「冬川さん、この資料、どうやって作ったの?」

 「え、あ、すみません。資料を整理しろと伺ったので、過去のレポートをデータベースで検索して構成を参考にしながらまとめました。どこか不備があったでしょうか…?」


 ごく当たり前の作業手順だったが、その仕上がりは新人のレベルを遥かに超えていた。チームリーダーは内心舌を巻く思いだった。要点を押さえた構成、リスクを示唆する鋭い注釈、必要十分な引用元、そして彼女の本質を突いた独自の考察。体裁や構成は過去のレポートを真似すれば比較的容易に作れるものであったが、要点やリスク、そして独自の意見は、情報を分析し、自ら考えなければ書けないものだった。模倣では到達できない思考と感度が、そこにはあった。


 レポートは若干の修正ののちクライアントに提出され、高評価を得た。研修終了後、チームリーダーはA評価を付けた報告書を人事部に送った。「配属先は是非うちに」というメモとともに。


 その後に配属された新規顧客開拓チームでは、持ち前のリサーチ力と分析力で先輩が見逃していた顧客候補を割り出し、見事に取引に結びつけた。誰もが、彼女はすぐに本店勤務になると思っていた。

 だが実際には、その後六年間、支店勤務が続いていた。成果がなかったわけではない。むしろ十分すぎるほどの成果を上げていた。だが、才色兼備を体現するかのような彼女を手放したくなかった数人の上司が、評価を“そこそこ”に留め、人事部に送り続けた――その結果だった。


 その冬川が「次は本店勤務」と内示を受けたとき、ようやくか――と胸を躍踊らせた。支店勤務が嫌だったわけではない。けれど、一度は本店の業務に携わってみたいという気持ちは、常にどこかにあった。


 ――だけど、戦略企画室なんて部署、あったっけ?


 彼女は会社の組織図を熟知していたが、「戦略企画室」という部署の記憶はなかった。疑問に思い、本店総務部勤務の同期に確認してみると、あっさり答えが返ってきた。


 「ああ、それ新設部署だよ。俺も詳しくは知らないけどさ。戦略企画って、何やるんだろな。ま、でもそこのトップはあの桜庭さんらしいよ。東大卒でエリート。若手No.1。良かったじゃん、冬川もついにエリートコース入りだな」


 同期の明るい口ぶりとは裏腹に、冬川の胸には一抹の不安がよぎった。


 ――桜庭慎司。


 実は、一度だけ顔を合わせたことがあった。桜庭慎司は銀行のエリートコースの1つとされている内部監査部所属で、数年前、定期監査で冬川のいた支店に来ていたのだ。挨拶程度で会話という会話はしていなかった。

 だが、目にした桜庭の印象は、冷静で無表情。鋭い眼差しと、無口ともいえる寡黙さ。その存在感は、近寄りがたかく、決して好印象とは言い難かった。


*********************


 「それで?どんな仕事することになったの?」


 温かな煉瓦の壁にアンティークのランプが灯るイタリアンレストラン。異動祝いにと、仲の良い同期ふたりがディナーに誘ってくれた夜のことだった。


 「う~ん……結局、新規融資先を取ってこいってこと?」


 冬川の声には、釈然としない響きがあった。たしかに、新しい部署が実績作りのために融資案件を探すのは理解できる。だが今回、話は少し違っていた。開拓先の企業は既に決まっており、しかも融資額は最低三十五億円――さらに必要なら、出せるだけ出していい、とまで言われたのだ。


 「……あの、ひとつ確認してもいいでしょうか?」

 「どうぞ」

 「この“戦略企画室”って、具体的には何をする部署なんですか?」

 「戦略を企画して、実行する部署だよ」


 桜庭は、淡々と答えた。


 「それで、なぜこの“YUZUNOKI”という会社に融資を……?」


 そこでようやく説明された。YUZUNOKIは世代交代の時期に差し掛かっており、その相続税対策として、約三十五億円の資金調達が必要になっているのだという。


 「相続税で苦しんでる企業を助けるのも、銀行の大事な仕事だろ?それに、YUZUNOKIと組めれば将来的に展開の余地は大きい」


 それが桜庭の言だった。たしかに、三十五億円ともなれば本店マターの大型案件だ。しかし、それを担うべきは本来、融資企画部であって、なぜ“戦略企画室”が……という疑問が冬川の中には残った。


 「それって、桜庭さんのための部署だからじゃない?」

 「だよねー。副頭取派とか専務派とか、派閥の力学ってやつ?」


 同期ふたりは、あっけらかんとした様子でそう言った。冬川はうなずきつつも、どこか肩に重たいものがのっかかる感覚を覚えていた。派閥争い――自分には縁がないと思っていたものに、巻き込まれつつあるという現実。


 「で、どうやって開拓する気なの?」

 「この人にアポ取れって……」


 冬川は、バッグから取り出した名刺をテーブルの上に置いた。そこには、


 YUZUNOKI株式会社 マーケティング事業部部長 柚木 二晴


 と印字されていた。冬川は、桜庭にその名刺をどうやって手に入れたのか、そして社長や専務ではなく、なぜこの人物なのかを問いただそうとした。しかし、言葉を発するより先に、鋭い視線が突き刺さった。もうこれ以上質問なんか要らないだろ――と言うような目だった。それ以上は口をつぐんでしまった。


――とにかく、やるしかない。言われた仕事を。

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