第47話 最終章 ―存在を賭けた戦い― 9
世良が見えなくなる。ひなたはそれを確認すると、その場に崩れ落ちた。ぐったりとした様子で、集中的に蹴られた腹部を押さえた。
「やるじゃない、ひなた。自分を犠牲にしてお母さんを逃がすだなんて、なかなか骨があるわね」
ひなたは嬉しそうに薄汚れた頬を服に押し付けて拭き、笑った。
「さとりの恐ろしさは、あたしが一番良く知ってるしね。運動神経だけじゃなくて、あんたは力だって得意。男のチンピラ相手にだって、棒切れ一本さえあれば無傷で半殺しにして帰ってくる女の子。あたしが止められるとは思ってない。だけど、お母さんを逃がすだけなら……げほっ」
上半身を起こしたひなたの腹に強烈な踵落としが叩き込まれた。既に苦痛で声も出ない。腹部を両手で抑え、再びひなたは床を這わせられた。
「バーカ」
冷たい一言が浴びせられる。さとりは足でひなたの両胸を軽く踏み付けた。
「あんたのこの無駄に形のいいお胸が目障りなのよねぇー。私のはちっちゃいから、さっ!」
足の裏を擦り付けるように胸を踏み潰すさとり。朦朧とする意識でこれ以上無い屈辱を味わい、ひなたの目は悔しさで睨み付けていた。睨んだ瞳が気に食わない様子で、さとりはそのまま馬乗りになってきた。
「あああ!」
再び首に手をかけるさとり。軽く絞めて弄りながら、首にかけられた手。ひなたはそれを解こうと必死にもがいた。馬乗りになられ、力が入らない。
「私はね、あんたが気に入らなかった。生まれた時から。何で私がわざわざあんたのクローンを造って虐待してたか分かる? あんたのその顔が気に入らないのよ! そのブス顔。私は、私が生まれてからずっと、あんたのその顔が大っ嫌いだった。誰からもちやほやされて、男の視線を独り占めして、私がその陰でどんな思いをしていたと思う? いつも私は、神崎陽詩のオマケだったわ。男に媚売って、尻尾振って、悲劇のヒロインぶって、私を差し置いてどんどんどんどん先へと進んでゆく。あぁ気に入らない、気に入らないわ、吐き気がしそう。私はあんたの影なのよ。神崎陽詩っていう名前のメインディッシュの肉の付け合せに付いてくる、レタスとかトマトとかニンジンとか。そういう脇役みたいなものだった!
本当の主役は私。私は杏条ニューロンの会長の令嬢よ。あんたみたいなブス顔の凡人に、何が出来るって言うんだ! あはははははははははは! もう自分でも何を言っているんだか分かんなくなってきちゃった。あはっはははははっはっは。出来損ないドッペルゲンガーの陽詩も、クローンだって証拠が残らないように焼身自殺でもしてもらおうかしら? 身体を全てガソリンで焼き尽くして、誰が誰かも分からないくらいに! そして神崎世良! 自分がかつてそうしていたように、色んなクスリの人体実験にでも使ってやる! クスリ漬けにして、気が狂ったように死んでいくの。あははははは、考えただけでもゾクゾクしちゃう。ね、面白いでしょう? ひなた! あんたもだよ。お前は大嫌いだ。お前の家系さえ私の前に現れなければ、私はこんな人生を送らずに済んだ! こんな下らない生を受けずに済んだ! 神崎家のせいで私の人生はメチャクチャだ! ひなた、お前も死ね! かつて私がオリジナルの杏条沙鳥をそうしたように、全体重をかけて首の骨がボキボキに折れるまで捻り潰してやる! メス豚はメス豚らしくキィキィ鳴け! 家畜は主人には敵わないんだ! 思い知らせてやる! 神崎陽詩。このしーさいど桜ヶ崎が、お前の墓標だよ! さぁ死ね! 死んでしまえ! 死ねえええ!」
さとりが本気の力を込めて絞め出した。全体重を掛けて、文字通り首を押し潰そうとしてくる。ひなたは顔がうっ血し、口の端から泡を拭いた。
――しにたく……ない……。
首に掛けられた手は解けない。ひなたは最後の力を振り絞り、死に物狂いで悪あがきに出た。
「ぁぁぁぁあああああ!」
絞められている状態で、思い切り奇声を搾り出しながら、ひなたは全力で左の手の平でさとりの顔面を引っ叩いた。
「ギャアアアア!」
全力のビンタはさとりの顔にクリーンヒットした。赤い手の跡を頬に造り、さとりの上半身は吹き飛ばされる。怯んだ隙を見逃さず、ひなたは身体を無理矢理右に捻りながら、さとりを身体の上から退かすように動いた。勢いを殺さず、左足の膝で蹴りかかり、さとりの脳天を砕くような勢いで打ち込んだ。
「がはっ!」
先ほど散々自分がひなたに叩き込んでいた膝蹴りを、倍返しの如く脳天に食らい、さとりは視界が揺らいでフラフラと倒れ込んだ。
「はぁっ、はぁ……」
ひなたは大きく息を吸い込みながらも、立ち上がった。ここで負けるわけにはいかない。間一髪で窒息死は免れた。
「よくも、さとり!」
頭を抱えているさとりの背中に、ひなたは思い切り回し蹴りを叩き込んだ。さとりは頭のクラクラと、背中に走った強烈な衝撃で床を転がる。回転が止まったかと思うと、さとりは喉元と胃の辺りを手で押さえながら嘔吐した。人間の声とは思えない唸り声を上げながら。
ひなたもその様子を見るが、息を整えて、疲弊しきった身体に鞭打つ。身体中が打撲のような痛みに襲われていた。
白目を剥く勢いでさとりは胃液を嘔吐し続ける。長期間のストレスと緊張などで身体が不調を起こしているのだろう。さとりは嘔吐し終わると、充血した赤い目で、ひなたを睨み付けた。友人の目付きどころか、まともな人間とも思えるかどうか怪しいイカれた目付きだった。さとりもまた大きく肩で息をし、敵意を剥き出しにした。
「さとり、あんたは地獄行きだよ! 警察にでも大人しく捕まりなさいよ!」
ひなたは、弱った所を捕まえようと、さとりに再び飛び掛った。だがさとりは歯を食いしばり、思い切り飛び退る。自らの吐しゃ物も踏み付け、確固たる意思を持って挑んでくるひなたから、逃げた。
恐らく体調不良を起こしたさとりにも、力はあまり残っていないのだろう。
「待てえ!」
さとりが館内を逃げ始めた。ひなたは、さとりを確実に追い詰めている。最後の戦いを挑むため、ひなたはさとりを全力で追い始めた。
「私はあんたなんかには捕まらないわ。必ず……、あんたを殺してやる!」
「じゃあ、なんで逃げるの! 堂々と戦いなさいよ!」
「うるさい! 私に指図するな!」
さとりは百円ショップへと入っていった。ひなたも追いかけ、通路で急ブレーキして狭い百円ショップの店内へと駆け込んだ。ここで取り逃がすわけにはいかない。他の場所で捕まっている人質達をアテにするわけにはいかない。さとりを確実に捕まえる事ができる射程範囲内に今居るのは、ひなたただ一人なのだ。
百円ショップの中は、陳列棚の間隔が狭くて走りづらかった。オマケに色々な物が床にも散乱しているし、壁から掛かっているせいでぶつかったりする。前を走るさとりは食器コーナーから何かを取り、手に持っていた。ひなたも負けじと、掃除用品コーナーからお掃除ワイパーの柄の部分を持ち出す。
「こんな先端要らない!」
走りながら、お掃除ワイパーの先端のお掃除部分を取り外し、投げ捨てる。ひなたの左手には、一メートル強の長い棒が握られていた。まるで武具のようだった。
「ちっ」
百円ショップから先に出たさとり。
「食らえ!」
振り返って何かを投げた。
――包丁!
ひなたは手に持った棒を思い切り身体の前で振り回した。包丁を弾き飛ばす。刃物の弾丸は勢いを殺さず、百八十度反転して飛び、壁に突き刺さった。
「刃物投げてくるなんて、卑怯者!」
ひなたは走るスピードを上げる。さとりに追いつくか追いつかないかという所で、棒を叩き付けた。リーチの長い棒はさとりに左右に避けられ、床を打ち付ける。
横に棒を薙ぎ払う。さとりはひなたの動きを読んでいるかのように前方に転がってまた避ける。
――なんて動き! 反射神経が異常すぎる!
さとりはそれでも普段よりは動きが鈍っていた。今はひなたの怒りが強く、攻撃的になっている。今の状態で正面から戦えば、ひなたは確実に強い。イザという時に本当の力が出るなるひなたは、ここぞという場面で力を発揮できる。
「いいセンスしてるじゃない、ひなた。だけどやらせないわ!」
食品街へと逃げ込むさとり。角を曲がった所で、ひなたはさとりの行方を見失った。
「ど、どこ?」
十字の通路の真ん中に立ち、ひなたは棒を構えた。
「うらああああ!」
――上!
さとりが頭上から急襲してきた。手には包丁が握られている。恐らく百円ショップで二本奪ってきたのだろう。
ひなたは飛び退って回避する。刹那、さとりがひなたのいた場所へ包丁を付きたてながら落下してきた。
外した事も悔しくないらしく、すぐさま正面のひなたにニヤリとして斬りかかってくる。
「死ね!」
包丁を上から振りかぶってくるさとり。咄嗟に棒を突き出して防いだ。刃物とプラスティックの棒が脆い部分で当たり、火花が散る。
――棒が折れる!
プラスティックの棒では鉄の刃の力を受け止め切れない。鍔迫り合いを数秒した後、棒がひしゃげ始めた。
ひなたは声を上げ、飛び蹴りをさとりの腹に叩き込んだ。さとりが後ろに吹き飛ばされるも、倒れずに体勢を立て直した。
「痛いじゃないの、ひなたああ!」
包丁を受け止めた棒が真ん中から二本に折れた。だがひなたはそれを捨てず、両手に一本ずつ持って両手に棒切れ状態になった。両手に武器を持てばリーチは短くなるものの、素早く対応できるようにはなる。
さとりが缶詰めを投げ付けてきた。野球のボールの如く、豪速の球がひなたの頬を掠めて後ろへと飛んだ。ヒヤッとする風圧に、ひなたは一瞬怯む。もう一つ投げてきた缶詰めを避け切れなかった。
「キャァッ!」
腹に缶が当たり、ひなたは手で押さえた。さとりは右手に缶詰めを持ち、殴りかかってくる。
「うりゃああ!」
およそ女の子とは思えない奇声じみた声。ひなたは殴りかかってきた固い缶詰めを左の棒で払いのけた。
「うあああ!」
ひなたも負けじと、痛みを堪えて両手の棒でさとりを殴りに掛かる。さとりは再び逃げ出した。




