第44話 最終章 ―存在を賭けた戦い― 6
そう。少女の顔は、ひなたと同じ顔をしていた。やせ細り、染めていない黒髪、疲れ切った笑顔。だが、ひなたと全く同じ顔をしていた。
「自己紹介、しなきゃ。あたしの名前はね」
「イヤ! やめて、言わないで!」
ひなたは頭を抱え、叫んだ。それでも、少女は言った。
「あたしの名前は『神崎 陽詩』。あなたの」
「お願い、やめてえ!」
「あなたの……、クローン人間です」
ひなたは頭を地面に押し付けるようにして叫んだ。
「いやああああああ!」
ひなたの泣き叫ぶ声が、他に誰もいない研究所内に響き渡った。
それは完全に裏切られた瞬間だった。ひなたの中で信じていた、最後の砦となるガラスのように脆い壁が、ぐしゃぐしゃに潰されるような衝撃と共に無残に叩き割られた。
ひなたは崩れた。もう一人の神埼陽詩の前に頭を垂らし、静かにすすり泣いた。黒髪の陽詩が、優しく頭を撫でる。あたたかな温もりが感じられる手で、オリジナルの存在を許すかのように。
「あたしは一体何なの? みんな、あたしを邪魔者扱いするんだよ……。死ねって事なの? あたしに遠回しに死ねって言ってるの?」
痩せこけた手のひらが、ひなたの頭を撫で回す。
「あたし達は、ちょっと他の人よりも、人に対する運に恵まれなかっただけなんです。死ぬべき人間なんていないんです。そう思わなきゃ、やってられません……」
ひなたは頭を上げた。希望を失った曇った瞳で、陽詩を見つめる。
「この身体に何の価値があるの? 邪魔者扱いされて、蔑まされて、虐げられて」
陽詩は言い返した。
「じゃあ、逆に聞きます。あたしはどうなんですか? ひなた」
質問の意味が良く分からなかったらしく、ひなたは首を傾げた。
陽詩は続ける。この世の悲しみを全て背負ったような悲壮な顔で。
「あたしは三年前に、神崎陽詩のクローン人間としてこの世に生まれました。生まれて間もなく、自分がどういう生き物なのかすら分からない内にこの研究所跡の檻に放り込まれ、杏条さとりのいい虐待道具としてずっとここで囚われてました。一度も日の光を浴びた事はありません。餌は、そこにあるドッグフードです。
一ヶ月に一回、さとりはここに遊びに来て、衰弱して弱ったあたしを散々弄って虐待した後に、ドッグフードの袋を一つ置いて帰っていきます。一ヶ月に一回しか餌がもらえませんから、十キロを一ヶ月もたせなきゃなりません。お腹いっぱいおいしいものを食べた事なんか一度もありません」
淡々と語る陽詩。拳をぷるぷると震わせるひなた。
「三年もの間、この暗くて冷たい、誰も来ない破棄された研究所で一人、『オリジナルの神埼陽詩』から生まれながらに受け継いだ記憶を思い出して、数少ない楽しい思い出を精一杯味わっていました。永遠とも思える長い時間をこの監獄で過ごすには、あたしにはそれ以外の方法は何もありませんでした。
そんなあたしには、何の価値があるんですか? 人として生きる事すら許されず、死ぬ事も出来ず。オリジナルから生きてきた記憶だけは受け継いで、自分では経験していないのに生まれながらにして持っている他人の記憶を思い出して、自分で自分を無理矢理楽しい気分にさせて、癒される事の無い飢えを凌いでいる。
そんな生き物に何の価値があるんですか? 教えてください、あたしのオリジナルの神埼ひなた。
あたしには、何の価値があるんですか?」
陽詩の一つ一つの言葉が、ひなたの心を深く刺し貫く。返す言葉を失い、ひなたはもう一人の自分を強く抱きしめた。
「ごめんなさい……」
痛々しいほど擦り切れそうな声だった。
「辛かったよね、陽詩。あたしが馬鹿だったから、こんなになるまで待たせちゃって。夢で見てたのに。もう一人のあたしが、ずっとあたしに助けを求めてきてたのに。あれは、ただの夢なんかじゃなかったんだね。ちゃんとあたしに呼びかけてたんだよね。それを、あたしが無視し続けて。
なんでもっと早く気付いて、迎えに来てあげられなかったのかな。自分の馬鹿さが嫌になっちゃうよ。謝っても謝っても、謝りきれないよ……」
陽詩もまた、オリジナルを弱々しく抱き締める。衰弱して青筋が見えるほどほっそりした腕は、幼い子供のようであった。
「いいの、悪いのはひなたじゃない。あなたは、自分の事だけで精一杯だったんでしょ? 本当に悪いのはあの子なんです。ひなたは何も悪くないです。だって、あたしはひなたの辛い記憶は沢山持ってるけど、自分で体験したわけじゃないもの。その時本当に辛かったのはあなただから。だからこれは、お互い様なの」
「ありがと……」
二人の神埼陽詩は、互いの存在を認めた。全く同じ身体を持ち、全く同じ記憶を共有した存在。この二人の間でしか共感できない何かもあるのかもしれない。
「さとり……。許せない。こんな事、人間としてやっちゃいけない!」
「あの子は禁忌を犯しました。許すわけにはいきません」
二人は互いに頷くと、立ち上がった。衰弱した陽詩に肩を貸し、ゆっくりと地上への道を歩く。
「あたし、本物の外の世界が見たい。色んな事をしたい。ひなたの記憶でしか、外の世界って知らないから。もう暗闇は嫌。光が欲しい。あたし、人間になりたい……」
「陽詩は人間だよ」
黒髪から覗く少女の瞳が、笑った気がした。
地上に戻ってくると、さとりと世良の姿はそこには無かった。ひなたはおかしいと思いながら、人質達のいる売り場通路へと、陽詩を連れて歩いていった。
「ここが、地上なのね……」
「うん。今は夜だから外は暗いけどね」
元いた売り場通路へと戻ると、そこには人質達の姿はいなかった。
代わりに、膠着状態になっている世良とさとりの姿だけがあった。後は、亡くなったエリカの遺体だけが。もしかしたら、真犯人のさとりが一時的にこの場を離れた事で、ここにいた人質達は既に外へと逃げ出したのかもしれない。
世良はショットガンを構えたまま、さとりを威嚇し続けていた。ひなたが姿を現した時、一緒に現れたもう一人の陽詩を見て世良はぎょっとした。
「ひなたも、クローンを造られていたのね」
「はい。あたし、ひなたのクローンです……」
世良のすぐ側まで連れてこられ、陽詩はひなたの肩から崩れ落ちた。弱った足腰のせいで、肩を貸してもらっていても歩くのはやっとだった。
白いワンピースが転倒した衝撃でめくれ、白い下着が露になる。
「だ、大丈夫?」
ひなたは、倒れた陽詩を起こそうとしてしゃがんだ瞬間、何かに気付いた。
「なに、この青いの……」
めくれたワンピースは陽詩の背中を露出させていた。背中の皮膚が、青色に変色していた。痣とかいう青色ではない。まるで絵の具のような鮮やかな青色だった。
「ちょっと、これヤバイよ……」
ひなたは思い切ってもっとワンピースをめくった。背中が全て露出すると、ほぼ背中一面が青みがかっていた。緑色に変色している箇所もある。体中を良く見ると、背中だけではなく腹部にまで侵食は進んでいた。触ってみると、変色した皮膚が硬質化している。間違いなく、神崎クローンで生まれたクローン体にのみ起きる、クローン病だった。
「ね、ねぇ、あたし病気なんだよね……? ちゃんとご飯食べていっぱい寝れば、治るんだよね……?」
彼女は自分でも分かっていたのだ。何の病気だか分からないのだろう、自分の身体に異変が起きているのを恐れている。まだ皮膚が剥がれる末期症状までは至っていないようだが、既に第二段階にまで移行している。もう少し発見が遅れていたら最終段階に移行し、病気の末期症状を発症して助からない可能性が高かったかもしれない。
「お母さん、この子複製性緑青斑を発症してる!」
「大丈夫よ、私ならその病気を治せるわ。でも、治療はこの状況では無理よ。どこか落ち着ける場所に連れて行かなければ」
ひなたはそれを聞いて落ち着いた。何とかこの状況を脱せれば事態は良い方向へと向かえる。
「さとり、一体これはどういう事なの。説明して」
ひなたは立ち上がる。さとりを睨み付け、冷静な声で言った。
「自分で見たでしょう? そのまんまよ」
飄々とした態度で、さとりは答えた。ひなたは『プッ』と笑う。
「あたしを虐待して、そんなに面白かった? そんなにあたしの事が嫌いだった? あたしはさとりにとって友達じゃなかったの? あたし、信じてたんだよ。さとりだけはあたしの友達でいてくれるってずっと信じてたのに!」
「そう、『杏条沙鳥』はひなひなの親友だった。だけど私は杏条沙鳥じゃない」
「やっぱり、あんたはさとりのクローンだったんだね。お母さんが話してくれた。もしかしたら本物と入れ替わってるかもしれないって。何処? あたしの友達の『杏条沙鳥』は一体何処なの!」
さとりは何がおかしいのか分からないが、沸々と込み上げてくるような笑いをこぼした。
「何がおかしいの!」
「あんた馬鹿じゃないの? まだ意味が分かってないようね。いいわ、改めて自己紹介してあげる。私は『杏条さとり』。そこでショットガンを構えてる神崎世良が生み出した、出来損ないの神埼クローン体第一号だ! 私は杏条沙鳥じゃないけど、杏条さとり。杏条さとりはこの世に一人しか居ない!」
ひなたは口元を押さえた。
「まさか……」
「そのまさかだよ! 私は杏条沙鳥が十歳の時に生み出された。そして、オリジナルと入れ替わったんだ。
馬鹿で低能な神崎陽詩。あんたの親友だった杏条沙鳥は、私がこの手で殺してやった! 馬乗りになって、両手で首の骨が折れるまで絞めてやった! 気持ち良かったよォ、私の邪魔をするオリジナルがこの世から消えて、汚らわしいクローン体だって事を綺麗さっぱり忘れて本物に成って代わる事が出来たんだもの」
さとりの笑みが邪悪なものへと変わっていた。
「そんな……」
ひなたの顔から血の気が引いた。沙鳥との楽しい思い出。それは偽者のさとりの手によって奪われたのだ。
「見なさいよ、この醜い身体を!」
さとりはブレザーのボタンを外し、脱ぎ捨てる。リボンを解き、ワイシャツのボタンを外し、広げた。黄色のブラジャーの下、腹部にはびっしりと緑の斑点が広がっていた。
「さとりも、複製性緑青斑を発症してたんだ……」
「そう。私も病気よ。今は背中とお腹だけで済んでいるけど、その内腕にも足にも、首筋にも病気の進行は進むわ。全身が緑色の化け物になって、死んでゆく運命なのよ」
さとりはぶるっと震えると、脱ぎ捨てた服をまた着用しだした。
「あー寒い寒いわ」
勢い余って脱ぎ捨てたその態度が滑稽だったが、誰一人として笑う者はいなかった。
「まさかさとり、そのためにお母さんを!」
ひなたは、世良に向き直った。世良も唾を飲み、頷いた。
「……きっとその通りなんでしょうね」
複製性緑青斑はクローン病であり、発症する人はごく少人数に限られる。そのため、一般的に薬は精製されていない。唯一、複製性緑青斑の治療薬の精製方法を知っているのは、神崎世良以外に他にいないのだ。だから、さとりが生き延びるためには、神崎世良を探し出す以外に道は無かったのだ。




