第36話 第四章 ―死命― 7
世良は、何かをバッグから取り出した。
「ようやく、これを返せるわね」
ひなたに差し出したのは、一冊の古ぼけた落書き帳だった。当時のアニメのキャラクターの絵柄がプリントされている。年月が経っているらしく、ノートは端っこが黄ばんでよれていた。
「なに……これ……」
ひなたは涙を拭いながら、差し出されたノートを受け取った。何か見覚えのあるノートらしく、ゆっくりと開いてみる。
「読めないな、なんだこのノートは。字じゃないのか。絵だな」
海斗も横から覗き見た。
ぐちゃぐちゃの線が引かれた落書き。カラフルなクレヨンで塗り潰されたページ。男の子と思しき子と、女の子と思しき子が仲良く手を繋いであるいているようにかろうじて見える落書き。
「これ……、小さい時に使ってたあたしの落書き帳?」
次のページを開く。今度はがらりと変わった内容だった。
『じゅうにがつ、一にち』
『きょおから、にっきおかこうとおもお。あたしわひなたです、さんさいです。おかあたんわとってもきれいてす。いつかおかあたんみたいになりたいな』
「これ、書いた覚えある……」
ノートを持つひなたの手が震えた。幼い子特有の読みにくいぐちゃぐちゃな汚い字で、日記の真似事をしていた様子が見て取れた。何日分か、それが続いている。
『じゅうにがつ、よんにち』
『きょおわ、おかあたんとおとうたまと、ごはんたべてきまいた。とってもおいいしかったです。おとうたんわごはんおいっぱいたべてたよ。おかあたんわいっぱいわらっあてたよ。あたちわおはしがえたくそなのでつかえなくうって、すぷうんでごはんおたべたよ。とおっーてもおいしかたよ』
『じゅうにがつ、じゅうろくにさ』
『にっきおかくのおわすれさゃってたよ。ひなたわおばかだね、えへん。
きょおわちょっとおかあたんがないてたの。あたちおだきちめてないてたの。きと、おとおたんがなにかしたんだとおもて、おかあたんのかわりにおこってあげたよ。おとうたんにわるいことしちゃだめだよっていったら、ちらないよっていわれたの。なんでおかあたん、ないてるのかなぁ。あたちいいこにすればなきやんでくれるかなあ、かんはっておかあたんをわらわせよう』
「十二月一日、四日、十六日……次は、二十四日?」
『じゅうにかつ、にしゅうよんにち』
『きょおわうれしいことがあたの。くりすますいぶのぷれせんとおおとうたんがくれたの。おっきいな、ながくつのなかにおかしがいいっぱいはいってるの。あたちわかわあいいもんね。おとうたんとならけっっこんしてもいいよ。
あしたわおかあたんが、ゆうえんちにつれてってくれるの。うれしいな。あたしのおたんじょうびわ、あしたなんだって。うれしいな。あしたであたち、よんさいになるよ。はやくおとなになっておとうとけっっこんしたいな』
『じゅうにかつ、にじゅうごにち』
その後のページは、全て白紙だった。十二月の二十四日で、日記は終わってしまっていた。
「これ、お母さんがいなくなった日の前日……?」
世良は頷いた。
「このノート、思い出した。失くしちゃったと思ってた。お母さんが持ってたんだ……」
世良は懐かしむように言った。
「この日記が、あなたの物語の全ての始まりだったのね。あの日ユニバーサルランドに行った事を、前もってあなたは書くつもりでいた。だから十二月二十五日の文字だけが最後に書かれていた。忘れないように、前日に書いておいたんでしょう?
そして、あなたがわたしのバッグに入れておいた。『ユニバーサルランドに着いたら日記を書くの』って言ったまま、すっかり忘れて。そのバッグを持ったまま、あの日わたしは家を出た。だから、あなたに返す機会を失ってしまった。今こそ、そのノートはあなたに返します。わたしの持ち物ではないから」
ひなたは首を横に振った。
「お母さんにあげる。読むと、きっと悲しくなってくるから」
「そう……」
再びノートは差し出され、世良の手に渡った。
「あたし、お母さんの足跡を追って分かったの。お母さんはあたしを捨てたんじゃなかったんでしょ。全てを話して」
涙の筋が頬に残ったまま。世良にせがむ。だが世良は表情を硬くした。
「わたしは逃げたのよ。あなたに言い訳する権利など無い……」
首を横に振る。
「違う! もう嘘をつかないで。お母さんは逃げたんじゃないでしょ、言い訳なんかじゃない。真実が知りたいの」
海斗も頭を下げる。
「お願いです、話してください。それが全ての解決の糸口になる可能性もあるし、何よりあなたはひなたに説明する義務があります。これだけ辛い思いをさせたんだ」
世良は俯いた。
「そうね。事件の事は知ってるわ。実の娘ですもの、ここまで似ている顔がテレビに出ていれば嫌でも分かります。そのためにここまで来たんでしょう? いいでしょう、話します。ただし」
一旦言葉を区切った。
「……後悔するかもしれないわよ」
ひなたは迷いの無い表情で強く頷いた。
「いいよ。話して」
三人はランドの中を歩き始めた。世良を先頭に。
「全ての始まりは、もうだいぶ昔。ひなたが生まれた頃まで遡るわ」
雪の積もったユニバーサルランドの空を見上げ、世良は語り始めた。
わたしは小さい頃から遺伝子工学の研究者になりたかった。理由は色々あったけれど、子供の頃どこかで読んだ漫画なんかに影響されたのかもしれないわ。人間が人間を造り出す、アンドロイドなんかが出てくる昔のチープなアニメや、怪談話のドッペルゲンガーとか、そういうのが面白いと思っていたんでしょうね。いつか、自分の手で生き物を造り出してみたいっていう、子供時代の馬鹿な夢を実現させようとしていた。
高校は行かなかった。飛び級で大学に進学した。夢が決まっていたわたしは、毎日を下らない高校生活に身を投じるよりも、早く遺伝子工学の勉強がしたかった。大学を卒業し、大学院で博士号を取った。周りから博士と呼ばれるようになってからも、わたしは勉強を惜しまなかったわ。卒業した世田谷大学へわたしは戻り、そこで恩師の野田教授と一緒に遺伝子工学の研究をしていたの。
ある時わたしは研究中に、特殊な遺伝子情報の抜き取り方を編み出す事が出来た。その方法を使えば、全く新しいクローン技術が開発できるかもしれないという、画期的な方法だったわ。普通の人には難しいし、理解できなくても当たり前だからあえて詳しい説明はしないけれど、もしかしたら遺伝子工学の新しい扉が開くんじゃないかってくらいに、素晴らしい結果が予想できた。それが、後に生み出す事になった、『神崎クローン』技術の原型となる出来事。
ラットやモルモットでそれを実験した。自分で考えて、自分で設計した小型の培養機の中で、自分の考えた通りの結果を持つ個体が生み出された。そう。被験者であるオリジナルの固体と全く同じ姿かたち、遺伝子レベルでの類似性を持つクローン体が生み出された。性格も癖も全て同じ。恐らく記憶すらもオリジナルと同じものを持っていると思われたわ。つまり、『オリジナルを元にして、全く同じ生き物をコピーする技術』の原型が出来たの。従来のクローン技術では、それは不可能だった。同じ遺伝子を持つといっても、胎児の状態で生まれてきていた。だから遺伝子レベルでは同じでも、全く同じ固体を同時に存在させるという事は無理だったの。
でも、わたしにはそれが出来た。恐らく、世界で初めてわたしが生み出した技術。でもわたしはそれ以上の事は考えていなかったわ。
自分の生み出した技術は、禁忌の技術だという事を認識していたから。だから、ラットやモルモットをいじくって満足したら、その内封印しようと考えていた。
大学の研究室にいたある時、研究者としてスカウトしたいっていうオファーが来たわ。それが、杏条ニューロン株式会社だった。何処から聞きつけてきたのかは分からなかったけど、是非わたしの力を会社で生かしてみないかという誘いだった。
当時既にわたしは結婚していて、お腹の中にはひなたもいた。あの人は決して収入の多い仕事ではなかったし、大学の研究だけで食べていくのにも限界があった。だから、良い待遇を約束してくれた杏条ニューロンへと移る事を決意したの。
野田教授は残念そうにしていたわ。わたしも、恩師である教授の元を離れるのは寂しかった。でも、現実は残酷だったから。そこに居つく事は出来なかった。
杏条ニューロンは大学の研究室とは比べ物にならないくらい、素晴らしい研究施設を用意してくれたわ。わたしだけのための研究室。多額の費用を投じた実験設備。優秀な能力を持った部下達。望めば何だって生み出せそうな場所だったわ。わたしは勿論、会社の期待に応えようと昔以上に働いたわ。
そんな中ひなたも生まれた。産休が終わってからもわたしは以前と変わりなく働いたわ。育児と重なって、連日連夜激務に襲われた。本当の休みなんて、一ヶ月に一日や二日あればいい方だった。そんな中、唯一取れた休みを使って、ここ『東京ユニバーサルランド』にも遊びに来ていたわけだけれど。
杏条ニューロンで働いて一年とちょっと経って、ある時新しいプロジェクトを立ち上げる案が出てきたわ。それまでは製薬に力を入れていたあの会社だったけれど、動物クローンの技術プロジェクトが発足したの。元々そちらの方が得意分野だったわたしは、嬉しかったのを覚えてるわ。
腕を買われて入社したわたしを、杏条ニューロンは高く評価していた。プロジェクトチームはわたしをリーダーに、選りすぐりの研究者達を集めて発足された。そのクローンプロジェクトが、今日の杏条ニューロンの発展の元。
従来の方法で最初はクローンの開発を考えていた。だけどそれでは、他の会社との差が付かない。そこでわたしは、使ってしまったの。昔生み出した、『神崎クローン』の原型となるあの技術を。技術自体は会社で生み出したものとなってしまうけれどそれは仕方なかった。
研究者達は皆、歓声を上げたわ。こんな画期的な技術が存在したのかという風に。何故今までこれを明るみに出さなかったのかと惜しむ声も多かった。ノーベル賞でさえも取れるのではないかと言う人も居たわ。
別にわたしはそんな物のために研究しているわけではなかったし、同じ生き物を造り出すというこの技術は、使い方を誤ればとんでもない結果を引き起こす可能性も考えられたわ。動物相手に使うだけならまだマシだった。これが人間に……と考えると恐ろしい技術だったわ。
その技術を用い、杏条ニューロンは瞬く間にクローン技術を発展させていった。でもその技術は所詮は小動物に対しての技術。当時使っていた培養機だって小さなものだったし、最大でも鶏ぐらいしか生み出す事は出来なかった。それに試した事は無かったけれど、もし人間をこの技術で生み出すのならば、更に研究を重ねなければならなかった。わたしは人間のクローンを造るなんて恐ろしい事はするつもりは無かった。だけれども、会社の方はその技術を使って、やる事がエスカレートしていったわ。
その内、大きな動物相手に実験が始まった。会社は資金だけはあったから、珍しい動物だって用意する事は容易かった。設備も巨大化され、大型の動物でさえも生み出せる培養機が設置されたわ。キタキツネや白馬、果ては象ですらクローンの対象として見られた。
この頃から、嫌な予感がしていたわ。既にわたしの知らない所で、技術の悪用が考えられていたようだった。やはりあの技術を公に晒すのは間違っていたわ。禁断の技術だった。人間が生き物を作り出すなんていうおこがましい事は冒涜だという人もいる。その時になって、わたしはようやく気付いたの。こんな技術なんて造るべきではなかったと後悔した。クローンによって誕生させられた動物達は文字通り実験動物として、わたしの手の届かない所でいじくり回されたわ。ありとあらゆる薬漬けになって気が狂ったようにして死んでいった動物もいたし、体中バラバラにされた動物もいた。そんな動物達の悲鳴を聞いて、わたしはいつしか気がおかしくなりかけた。
会社は暴走を始めていたわ。わたしの配下に居た研究者達は優秀だった。裏を返せば、研究のためなら何も恐れないマッドサイエンティストな部分を持った人も多かったわ。わたしは、遺伝子工学の研究を続ける事が怖くなった。今はわたしの研究によって、この神崎クローンの技術は発展してきている。わたしがいなければこの技術は発展しない。このままここに居続ければ、いずれ絶対に踏み込んではならない領域へと足を踏み入れてしまう事が確信できた。
そう、それこそが人間のクローンを造るという事だった。それだけは避けなければならない。もしヒトクローンを造るような禁忌を犯したら、被験者となった人も、クローンとして生み出された人も悲惨な結末を迎える事は容易に想像できた。同じ人間がこの世に二人存在するなんて、あってはならない事だった。だがこのままでは、それが可能となってしまう。
わたしは、杏条ニューロンから手を引く事を決めた。まだまともな人間で居られる内に、この技術を捨てなければいけないと思った。
だけれども……。




