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第37話 第四章 ―死命― 8

 世良は振り返った。その視線の先にはひなたがいる。

「杏条ニューロンは姑息だったわ。退職願いを出したわたしを、脅迫してきたの。わたしが会社から手を引こうとしている事を察知して、先手を打っていたのよ。わたしが杏条ニューロンを辞める事が出来ないように。わたしがいなければ、神崎クローンの技術は発展出来なかったから」

 ひなたと海斗は黙ったまま、世良の言葉を待った。

「わたしは、ひなたを人質に取られたのよ」

「え……?」

 ひなたは目を点にしていた。立ちすくみ、母を見つめたまま。

「当時、ひなたはまだ三歳だった。会社の一角に連れてこられたひなたは、わたしとガラス越しで見つめ合ったのを覚えているわ。きっとあなたは覚えていないでしょうね」

 記憶を辿っても浮かんでこないらしく、ひなたは頷いた。

「……おぼえてない」

「娘の命が惜しければ、杏条ニューロンの発展に手を貸せと言われたわ。それも、家族を捨てる思いで身を粉にしろと」

 世良は右手の拳を握り締めていた。小刻みに震えている。

「恐らく、ひなただけではなくあの人にも危害が及ぶ可能性があった。家族を守るためには、わたしが犠牲になるしか他に道が無かった! わたしさえ犠牲になれば、ひなたは助かる。悩みに悩んだ末の苦肉の策だった。

 だから最後に、娘を遊びに連れて行かせてほしいと頼んだ。それが終わったら家族と縁を切る。だから家族だけは助けてほしいって頭を下げた。それが、十三年前のあの日の東京ユニバーサルランド。楽しそうに笑うひなたを見ていたら、この子を守りたい。生きてほしいって思えたわ。あんな汚れた会社の連中の手になんか絶対にかけさせるものか、そう思ったわ」

 ひなたの声が震えた。海斗の声も震えた。

「それって……」

 二人同時に声を発した。続けてひなたが声を絞り出した。

「お母さんは、あたしを守ってくれたの……?」

「わたしはただの一研究者に過ぎなかった。何の力も無い無力な女だった。最後に家を出て行く時、なんで話さなかったんだろうって後悔したわ。謝りたかった。地面に頭を擦り付けて謝りたかった。声の限りに『ごめんなさい』って言わせてほしかった。だけど、もうあの人はいないのね……。謝れなかった」

 母の腕に抱き締められる。あたたかな温もりに包まれ、ひなたは目を瞑った。

「ごめんなさい。ごめんなさいひなた……」

 掠れた声がひなたの耳に木霊した。安心しきったかのように身を任せる娘。十三年間離れていた親子は、ようやく一つになった。長すぎた別離だった。

「あたし、お母さんを許します。だからもう、自分を責めないで。お父さんはもういないけど、あたしはこうして目の前にいるから。お母さんの言葉は、ちゃんとあたしに届いたよ」

 親子の再会を見届けた海斗。死を届ける冷たい両手から、再会を祝う白雪へと空気は変わっていた。空を見上げ、海斗は一つ頷いた。

「いいな……クリスマスって。こんなに気持ちが昂ぶったのは初めてだ。多分、今日だからいいんだろうね」

 目的は成就された。だが、次はどうするのか。確かに世良は見つかった。そして、どうする。考えなければならない。そして、もっと聞かなければならない事もある。

「世良さん。話の続きをいいですか」

 ひなたを抱き締めたまま、頷いた。

「世良さんは、杏条ニューロンでその後も研究を続けていたんですよね。どうして今度は本当に失踪したんですか」

 いよいよ、物事の核心に迫る。ここが、一番重要な場面に思えた。神崎世良に何があったのか、の謎の中心だった。

「わたしは会社で研究を続けながら、ある時意を決して家族に電話を入れようと思った。でも……、もう行方がつかめなかった。成長したひなたの声が聞きたかった。そしてその時に謝りたかった。あの人が無事でいるかが心配だった。でもきっと、その時にはもうあの人は亡くなっていたのでしょうね。昔住んでいたあの家にはもう、電話は繋がらなかったの」

 ひなたは言った。

「お父さんは、あたしが十歳の時に死んだよ。深夜にウチに酒酔い運転のトラックが突っ込んでね。お父さんはトラックに潰されて、火に焼かれて……逃げられなかったの。あたしは、消防隊員の人に助けられた。無意識の内に、お母さんに買ってもらったぬいぐるみだけは必死になって持ち出してた。きっと、あれがあたしにとってお母さんそのものだったんだと思う。

 それからはずっと施設で暮らしてたから。家は無くなっちゃったし、電話が繋がらなくても普通だよね」

「そうだったのね……」

 電話した時には遅すぎたのだった。世良は嘆くように落胆する。

「わたしは、家族が無事で居続けるのならば杏条ニューロンに従うつもりだった。だけど、音信不通になったという事は家族の安全が守られなかった事だと判断したわ。わたしは、杏条ニューロンを裏切る事を決意した。もしかしたら、ひなたは奴らに殺されてしまったのではないかっていう被害妄想的な憎しみすら起きた。それに、誰も幸せに出来ない研究を続ける事が、辛すぎたから」

 海斗は訝しげに聞いた。

「誰も幸せに出来ない研究?」

「そうよ。わたしの研究は関わった人全てを不幸にしたわ。家族を人質に取られたとはいえ、越えてはならない一線を遂に越えてしまったのだから」

「やはり、ヒトクローンですか」

 世良は静かに頷いた。

「わたしは既に汚れてるわ。一生消えない罪を背負っている。ひなたの彼氏さん。あなたには分かる? 命を科学的に造り出すという事がどれだけ世界に影響を与えるか。それが動物ならば、ただ食べて生きて、子を成す事だけが目的。だけど、人間の場合は? 人間には、明確な知能があるわ。言葉もある。意思を紡いで他人に伝える事が出来る。クローンで生み出された人間には、父親も母親もいない。全く同じ顔をした人間が、この世に二人いる状態。まるで鏡を見ているようなものよ。気持ち悪いでしょう?

 本物は本物なの。偽者は所詮偽者。クローン人間は、どこまでいっても最終的には被験者の模造品なのよ。被験者からしてみれば、それはドッペルゲンガーと同じ。影の存在なのよ。

 ヒトクローンを造るという事はそういう事なのよ。生み出されたクローン体は確実に不幸になるに決まっているわ。その証拠に、わたしはこの手で二人のクローン人間を造り、その内の一人を死なせてしまった。散々苦しませた挙句に、助けられなかったのよ。

 わたしは二度と悲劇を繰り返したくなかった。だからこれを持ち出して、杏条ニューロンを後にしたの」

 世良は右手で懐から何かを取り出した。それは握り拳程の大きさの二つの小瓶だった。透明の水のような液体の中に、何かが浮いていた。粒のような無数の何かが。

「それは?」

 海斗は眉をひそめる。

「クローン体を造り出すために必要な、その人の体細胞よ。わたしが死なせてしまったクローン体の、オリジナルとなった人の物。クローンを造るために被験者から特殊な技法を使って体細胞を採取し、それを培養させる。この体細胞は、培養させる前の段階のもの。今でも、これを用いればその人のクローン体が精製できるわ。でも、この内の一人はわたしが不幸にしてしまった。二度と精製出来ないよう、持って逃げ出したの。杏条ニューロンから」

 ひなたは母の腕の中、顔を上げた。

「その二つ、誰の体細胞なの? お母さんは一体誰のクローンを作ったの」

「一人は、杏条早苗」

 ひなたが驚愕の表情を浮かべた。

「杏条早苗って……、さとりのおばあちゃん?」

「そう。わたしが二番目に生み出したクローン体が、杏条ニューロンの創設者であった杏条早苗さんだった。彼女のクローンはわたしが生み出し、そして病魔に勝つ事ができず、死なせてしまったのよ」

「なに、病魔って」

「わたしの生み出した神崎クローンの技術は、実は完璧ではなかったの。ヒトクローンを精製した際に、そのクローン体にのみ現れる不治の病があったわ。ひとえにクローン病とでも言った方が早いかしら。

 わたしが生み出したクローン体は二人。一人目の方は知っている内では発症はしていなかった。だけど早苗さんは発症が早かった。だから、先に彼女の方が病魔に蝕まれてしまったのよ。わたしも初めてその病気を見て、自分の目を疑ったわ」

 海斗は口を尖らせ、何かを思いながら聞き続けた。

「それで、どんな病気だったんですか」

「わたしはそれを、『複製性緑青斑ふくせいせいろくしょうはん』と呼んだわ。酷い病気よ。

 最初は体のどこかに青痣のような小さな斑点が現れるの。それは次第に、緑色に変色してゆく。まるでエイリアンのように。そして第二段階に移行すると、患部がカチカチに硬くなるの。傷のかさぶたのように。最終段階は、患部の硬くなった肌が剥離する」

「は、剥離……?」

 ひなたの足に鳥肌が立つ。

「そうよ。文字通り『剥離』。肌が剥がれて、肉が剥き出しになるの。患者は激痛に苦しむわ。その痛みを和らげるには、肌が剥離してしまった患部に皮膚を移植するか、強烈な副作用を持つ痛み止めを常に飲み続けるしかないわ」

「ひどい……」

 悲壮な声でひなたは言う。そのような症状に陥ったら、気が狂うのではないかと思える病気だった。

「杏条早苗さんが恐らく、複製性緑青斑の第一号発症者。もちろん、あんな病気は初めてだったから薬も何もなかった。それから、治療薬の開発が始まった。日に日に早苗さんの容態は悪化する一方だった。一箇所肌が剥離したと思えば、また別の箇所に発症が見られ、人工皮膚の移植ですら間に合わないほどだったわ。薬の副作用のせいで常に強烈な吐き気に襲われて、ベッドの上から身動き一つできなくなっていた。物を口から食べる事すら出来なかったようだったわ。ずっと点滴を打っていた」

 世良は再び歩き出した。二人も後を付いてゆく。

「わたしは何年もの間、徹夜で休みもほとんど取らずに、寝る時間も惜しんで複製性緑青斑の治療薬の開発を続けた。自分のせいで生み出された早苗さんを助けたくて、またもわたしは自分を犠牲にしたわ。早苗さんも犠牲者だったんだから。疲労困憊しながらも、救いたい一心で薬を作り続けた。だけど、成果はなかなか上がらなかった。わたしも肉体的にも精神的にも追い詰められてきた時、ようやく薬は完成したわ」

 ひなたの表情が晴れる。助かったんだね、というように。

「早苗さんの複製性緑青斑は治療できた。だけど、もう遅かったの。早苗さん自身が体力の限界を迎えてしまった。最後の最後で治療は出来たものの、病気によって長い年月を消耗させられ続けてきたから、力尽きてしまったのよ。結局、わたしは助けられなかった」

 世良はバッグから瓶に入ったカプセルを取り出した。白い小粒の薬がびっしりと詰められている。

「これがその薬。既に現物はこれしか残っていないわ。改めて作るにはわたしの頭の中にしか唯一残っていないレシピが必要。

 杏条ニューロンはわたしがいなければ神埼クローンで完全なるヒトクローンを精製する事は不可能。この薬が無ければ、どの道生み出されたクローン体は死ぬのだから」

 瓶を仕舞う。

「わたしは人殺しのレッテルを貼られてしまったわ。彼女も――孫のさとりさんも、わたしを人殺し呼ばわりした」

 ひなたも海斗も、はっとする。ここでその名前が出た事に。

「さとりは、お母さんがヒトクローンの研究をしていたのを知ってたんだね……」

 残念そうな表情を浮かべる。一番辿り着きたくない結論が出ようとしている。ひなたは考えたくないという風に首を小さく横に振った。

「知っているの? ひなた」

 海斗が答えた。

「僕とひなたは、さとりの幼馴染みです。まさか彼女は、知っていたんですか? 世良さんが杏条ニューロンにずっと居たというのを。ずっと母が失踪したと思い込んでいたひなたの傍にいながら! 一体何の理由があって!」

 言葉の最後は激昂していた。それが本当なら、さとりはひなたを裏切っていた事になる。ひなたにとって最悪のシナリオだった。

「わたしがさとりさんと初めて会ったのは、さとりさんが十歳だった時。だから、それ以前のさとりさんは多分、わたしが杏条ニューロンで働いていたのは知らなかったのかもしれないわ」

「それでも! 十歳の時に居たのを知っていたなら、何で今まで隠していたんですか。母親が居なくて寂しい思いをしているひなたがすぐ隣に居るってのに」

「教えるわけにはいかなかったのかもしれないわね。わたしのクローン技術を知って、事故で亡くなった杏条早苗さんのクローンを作るように命令してきたのは、さとりさんだったのだし」

「さとり……。何でよ。何でそんな事を……」

 ようやく、全てが見えてきた気がした。ひなたの心の中に、果てしない暗雲が広がる。何を信じればいいのか分からない。全てが信じられない嘘や欺瞞で満ちていてもおかしくない。

「……ひなたのそのカチューシャ、何か小さく音がするわね」

 世良は黄色のカチューシャに視線を注ぐ。小型カメラと盗聴器が付けられたカチューシャ。全ての音声は犯行グループへと繋がっている。

「あたし、監視されてるの」

「そう……」

 世良は近づき、カチューシャを眺めた。品定めをするかのように隅から隅まで手を掛けて見る。

「は、外しちゃダメだよ!」

 ひなたは頭に手をやり、世良が手に掛けた事に反応して自らの手で押さえつけた。

 世良は何かを見つけたように、カメラに映らないような位置に手を伸ばし、カチューシャの一部分をつかんだ。まるでひなたの頭がわしづかみにされたような光景であった。

「お、お母さん? なにするの」

「二人に最後に伝える事があるわ。気づかれない内に終わらせるから早口で言うわ。良く聞いて」

 海斗も近寄った。世良がつかんでいるのは盗聴器のマイク部分のようだった。あまり長い時間音を拾わないで居ると怪しまれる。すぐに話さなければならない。

「実は……」

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