第33話 第四章 ―死命― 4
再び走り出す。その瞬間、ガクンとひなたの視界は揺らいだ。
――あれ……?
まるで度がまるで合っていない老眼鏡をかけた時のように、ひなたの目から映る世界が一瞬グラついてぐにゃぐにゃになった。足元がふら付き、倒れそうになる。呼吸も荒くなり、白い吐息が空に消えていった。
――なによ、今度はなに?
白い世界の真っ只中だというのに、ひなたの頬は熱を持って赤くなっていた。ひなたは手袋を外し、ほてった顔を手で冷やす。
――あたし、なんか寒気がする?
雪の中にいるから冷えるとかそういう理由ではない。体の芯から冷えるのではなく、寒気がしていた。
――風邪……引いたのかな。あはは。
額に手を当てる。熱かった。体中が気だるく、足が重くなる。間違いなく、体調を崩している。ひなたは自嘲気味に疲れた笑みを浮かべる。
――でも、休めないの……。こんな所で。
ひなたは走った。自分の体調不良をも忘れるような勢いで。雪が顔面に襲ってくる。自分の手で拭い、走る。
息を切らせた。心臓の鼓動に合わせて、視界がグラっと歪む。寒さで体力が尚更奪われているようだった。
「ミッケがいる……」
こんな雪の中、ひなたの目の前に徐々に姿を現したのは、ミッケキャットだった。ふわふわのもこもこの体毛をしたオスの白猫のキャラクター。オーバーオールのような赤い服を着て、子供達の夢を背負ってユニバーサルランドに住んでいる。
「わーい、ありがとう!」
子供達と一緒に写真を撮っていた。ミッケはおどけたようなひょうきんな仕草をして何も喋らずに、それでも夢の世界に来たような楽しい気分にさせる魔力を宿していた。
人を自然と惹きつける魅力があった。ひなたも自然と、ミッケの方向へと足をゆっくり運んでいた。
ミッケがひなたに気付いた。家族と写真を撮り終わったミッケは、飛び跳ねるような楽しそうなステップでひなたの側に寄ってきた。
「ミッケ……」
ひなたは、ミッケの姿を見ると弱々しい力でその体に抱き付いた。温かな体毛が彼女を包む。
「ミッケ、あったかいね」
不規則な呼吸で、ひなたはミッケの顔に吐息を浴びせかけていた。ミッケは「どうしたんだい?」とでもいうような、首を傾ける仕草をしてひなたを抱きかかえた。その大きな両手で。
「ねぇ、あたしの体……まだ持つかな?」
ミッケはおどけた様子を止めた。真剣にひなたを抱きかかえ、倒れないようにして。ひなたの目は虚ろに、生気の無いとろんとした目でミッケを見上げる。
ミッケはひなたと見つめ合った。弱った子犬のような潤んだ瞳。そして、力強く頷いた。一つ大きく。
「良かった……。あたし、まだやる事があるんだ」
ひなたは嬉しそうに微笑した。
「あたしね、お母さんを捜してるの。この場所で、十三年前に生き別れたお母さんを。大丈夫だよね、あたしちゃんとお母さんを見つけられるよね……?」
ミッケは、大きな右手でひなたの左手を握った。
「大丈夫。みつかるとも」
声は聞こえなかった。だがひなたの心には、その無言で語るミッケの気持ちは届いた。
「ありがと、ミッケ。大好きだよ。ミッケはね、あたしの中ではずっとヒーローだったんだ。辛い時だって、ミッケを見たら元気になれた。あたし、嬉しい。本物のヒーローに会えて」
ミッケの体毛をつかむ。肩で大きく息をしながら、ひなたは再び立ち上がった。
「ほら、また元気になれたよ……。大丈夫だよ。あたし、まだ走れる。だからミッケ、あたしを放して。もう行かなきゃ」
だが、ミッケは首を横に振った。放さなかった。フラフラの華奢な体を。
「なんで、放してくれないの?」
頑なだった。雪の中に再び放り出すまいとするように。
「あたし、ミッケを嫌いになりたくない。今放してくれなかったら、きっと一生許せなくなる。だからお願い、行かせてよ……」
ひなたの顔は、見た目でも分かるくらいに青白くなっていた。それでも彼女は負けなかった。
ミッケはゆっくりとひなたの左手を放した。ひなたは、自らの足で歩き出す。一歩ずつ、確実に。雪を踏みしめて。
彼女を応援するかのように、ミッケはおどけて手を振っていた。やがて粉雪に紛れて、姿を消すまで。ミッケは、ひなたの意思を尊重してくれた。このままミッケに付いて行けばあたたかい場所で休む事も出来た。だが、ひなたはその選択肢は自分で捨てた。その顔に後悔は無かった。
雪が強くなってきていた。横から叩き付けてくるような吹雪と言っても良いくらいに。ひなたは手で雪を防ぎながら、前へと進む。
「何にも、見えないよ……」
四方八方が雪で囲まれていた。白い世界はひなたの視覚を麻痺させ、景色を見る事を許さなかった。ただ、ひなたの耳に小さく聞こえた。『小さな世界』が。吹雪に背を向けて目を凝らせば、少し景色が見えた。像の乗り物は運行を休止している。ポップコーンの屋台も姿が見えない。それどころか、誰も居なかった。ここで働くキャストの姿も、先ほどまであれほど歩き回っていた観光客の姿も一人も見えない。一歩先が真っ白でどうなっているのかが分からない。
「ここ、どこ……?」
闇雲に走り回った。何処だか分からなかった。全てが吹雪で覆われ、建物すらも真っ白に映った。ひなたの目に映るものは、時折ぐにゃりと歪んだ景色と、白い雪だけであった。吹雪が絶え間なく襲ってくる。その風に押され、動けなくなった。
「ねぇ、ここどこ……? いや……」
先ほどまで東京ユニバーサルランドにいたのではなかったのか。突然、吹雪に覆われて全く知らない場所に来てしまったような感覚に陥る。ただ、小さな世界が延々と耳に聞こえる。
「さむいよぉ……」
ひなたは自分の体を抱き締め、その場にうずくまってしまった。目も開けていられないほどに吹雪が襲い来る。背中に打ち付けるように飛来する雪の弾丸が痛みになる。
「おかあさぁん、どこにいるの! 返事してよ! ねぇ……」
声の限りに叫んだ。吹雪でかき消される。
「あたし、がんばったよ。すごくがんばったよ。みんながあたしをいらないって言っても、あたしはがんばった。絶対に幸せになるんだって思って、がんばった! だけど、お母さんがいなくてあたし寂しかったよ……。
お父さん、あたしの事見てくれてるよね……? ごめんね、あたしこんなバカで。お母さん一人も見つけらんない。お母さんが戻ってくるまでがんばろうって、お父さん言ったよね……? あたし、お父さん大好きだった。いつもがんばり屋さんで、優しくって。今度は三人で東京ユニバーサルランド行こうなって……。あたし、それを夢見て、がんばったよ……。あたし、あたし……」
足が動かなかった。意識が朦朧とした。小さな世界の平和な音楽が耳にいつまでも流れ続けた。優しい音色が、彼女の感覚を奪った。
倒れた。重い瞼がゆっくりゆっくり閉じられてゆく。赤紫のカシスレッドの髪が、吹雪に揺れた。凍り付いた悪魔の両手に包まれ、彼女の体は急速に冷たくなっていった。




