第32話 第四章 ―死命― 3
――雪なんて明日降ってくれればよかったのに。
クリスマスを楽しんでいる世間の連中にとっては、十三年ぶりのホワイトクリスマスになって一層ムードも盛り上がるのかもしれないが、この二人にとっては邪魔以外の何者でもなかった。しかも今朝の天気予報によると、だんだんと降雪量も昼間になるに連れて増えるような事を抜かしている。下手をすればバイクですら走れなくなる可能性もある。
トンネル内の照明が、ヘルメットに当たって後ろに流れてゆく。悪天候で東京湾アクアラインを利用する人がほぼいない。
ひたすら長い直線。海斗は憂さ晴らしをするかのようにアクセルを全開に吹かす。白の世界の入り口へは、わずか数分で辿り着いた。
幸いな事にアクアライン上は綺麗に除雪されており、単に雨に濡れているだけのような状態であった。
「この分なら、高速降りるまでチェーン無しで行けるかな」
海斗はニヤリとし、休憩のために海ほたるへとハンドルを向けた。
海ほたるの中の喫茶に入り、窓越しに儚く舞い散る白を見つめる。静寂の中、クリスマスの訪れを告げる客が、人間達に挨拶しては海へと溶けて消えていった。
――雪景色の中の海原ってのも、絵になるよね。
ホットのコーンポタージュ缶を握り締めながら、ひなたは冬の海面へと目を走らせる。東京湾は、穏やかであった。何もせず、浪はただ時を刻むだけ。人間達が複雑な思いを馳せていようがなんだろうが、戦って血を流そうが、彼はただ優しく見守るだけ。戦いの渦中に居るひなたの事も、ただ黙って見守るだけ。
――お母さんも、今日同じように同じ場所に向かってるのかな。うん、きっと……向かってる。
東京湾アクアライン建設の時に使われた削岩機の巨大な歯が、窓から見えた。今ではモニュメントになっている。
「見つかるよ」
向かいの海斗は言った。
「絶対に見つけられる。心配は要らない」
今の彼女には、その根拠の無い言い分も励みになったようだ。
「……うん」
そう答えて口を付けたコーンポタージュは、少ししょっぱかった。
彼女は再びやってきた。この場所に。
不慣れな場所であるため、地図を見ながら道に多少迷いもし、何とか環状七号線に合流する事が出来た。大きな地上百十七メートルもあるという巨大観覧車がモチーフの『葛西臨海公園』を横目に通り過ぎ、ようやく『東京ユニバーサルリゾート』の文字が看板に見え始める。
東京都から千葉県浦安市へ。幅の広い道路の左車線をひたすら飛ばし、目的地への足を急いだ。ジャンクションを左に進み、海沿いの道に出ると、そこはもうリゾート施設の色に染まっていた。高級ホテルが連なる一級地。ユニバーサルランドで遊び、ここで泊まってゆく家族客もいるのだろう。
海からの波音が静かに聞こえていた。穏やかな波が、ひなたの進むべき道を示しているようにも思えた。
――遂に、やってきました。
目の前に、東京ユニバーサルランドの入り口のゲートが現れた。時間は十時三十分。道に迷ったりもして、予想より少し遅れてしまった。遅くなればなるほど、神崎世良と遭遇できる確率は減ってしまう。捜索も厳しくなる。ここから一歩中に入ったら、ひなたと海斗にとっては戦場なのだから。
ゲートはかなり混雑していた。天候は悪いが、そんなものはここに遊びに来るお客には全く関係無いらしい。日曜日、クリスマス。混雑するには理由がある。入り口で駐車料金を取られるために、少々待たせられた。
「海斗君。あたし、お母さんに会ったら何話せばいいと思う?」
「そうだな」
海斗は頭を捻った。
「自分の気持ちを、素直にぶつけてみればいいんじゃないか。だって、十三年ぶりなんだろ」
「素直に、ね……」
ひなたは語尾を濁した。
駐車場にバイクを停めると、二人は人目もはばからずに駆け出した。周りには大勢の人々が歩いている。皆、この日のためにチケットを血眼になって取った人々だ。笑いの絶えない家族連れ、常に手を繋いでいるカップル。そんなものは腐るほど目に余った。
それに比べて、同じ男女でもこの二人は全く持って笑える状況になどいなかった。一言で表すなら必死。歩いている時間すら勿体無いというように。
駐車場とは違って、こちらのゲートは既に空いていた。二人はチケットを見せると、久しぶりのユニバーサルランドへと足を踏み入れた。
ひなたはランド内に入り、入り口で立ち止まった。遥か目の前に広がる広大なユニバーサルランドに目を向ける。
雪が一面、降り積もっていた。白いヴェールに包まれ、園内の街灯にうっすらと灯が燈る。昼間だが、雪雲の敷き詰められた空は夜のような暗さにも思え、地面を覆うホワイトカーペットは、この日のために用意された特別イベントを思わせる。
「綺麗……」
ひなたは独り言を漏らした。吹雪ではなく、静かに降り積もる雪。それはユニバーサルランドを文字通り幻想的な姿に変えていた。まさに、あの十三年前の日と全く一緒の景色。
「さぁ、捜そう。ここからが本番だ」
海斗の一言が現実に引き戻す。家族連れが動物のキャラクター達と一緒に写真を撮っている脇を、二人は通り過ぎていった。
東京ユニバーサルランドはとにかく広かった。入り口でもらってきた地図を見ても、くまなく捜さなければ見つからない。このランド内に居る可能性があっても、見つけられるかどうかは運に賭けるしか無かった。
「二手に分かれよう。この広さだ、二人で一緒に回ってても埒が明かない。僕は右回りで行く。神崎は左回りを頼む」
「わかった!」
ひなたは強く頷いた。この三日間で相当な疲れが来ていた。今朝も疲れで起きるのが苦痛であったようだ。この雪の中走り回るのは過酷と思われたが、休んでいる余裕は無かった。トイレの中まででも隙間無く探していかなければ、どこで世良を見落とすかが分からない。
「何かあったらすぐに電話してね! 走ってたらマナーモードじゃ気付かないかもしれないから、ちゃんと音出るようにしておいて!」
「任せろ!」
頼もしい返事で海斗は頷き、ひなたとは反対方向に走り出した。
ランドの象徴とも思える空高い城を見上げ、ひなたは一つ頷いた。
――あたしは負けない!
走った。闇雲に走った。家族連れもカップルも追い越して。元々運動など得意ではなかったひなた。すぐに息が切れる。膝に手を付いて休み、すぐにまた走り出す。
後ろ姿の女性に目を留める。
――違う。
髪の長い女が通り過ぎる。
――違う!
子供連れの女、靴紐を結んでいる女、ポップコーンを買うために並んでいる女。ひなたはすれ違う女全ての顔をきょろきょろと見て回った。
機関車のアトラクションは中止となっていた。インディアン調のエリアを回り、景色を楽しむ乗り物だ。どうやら工事中とか言うわけではなく、雪の影響で屋外にあるアトラクションはほとんどが休止になっているようだった。休止なら休止で、そのアトラクションの中には居ない事が明白である。ひなたにとってその点は歓迎できるかもしれない。
雪の粒が顔にかかる。手袋を脱いでそれを拭うと、指先にひんやりとした冷たさが感じられた。
――冷える……
捜索を始めてまだ十分ほどしか経っていない。ひなたは気を取り直して手袋をはめ直し、足を進めた。
自分を信じなければ、ゴールに辿り着けない。一歩先が暗闇のトンネルだった。出口があるのかすらも分からない。もしかしたらそこはトンネルではなく、四方八方を奈落に囲まれた袋小路なのかもしれない。
――あたしは、自分を信じる。
自分が今している事は正しいのだと。決して間違ってなど居ないのだと。そう思い込まなければ、彼女はプレッシャーに押し潰されてしまうだろう。これは時間との戦いでもあり、同時に自分との戦いでもあった。
――あたしは、弱い自分が嫌いだった。今だって弱い。他人の力を借りなきゃなにも出来ない。だけど、お母さんだけは自分で見つけなきゃ。自分の母親すらも自分で見つけられないなんて、そんなの情けないよ……。
西部劇のような街並みのセクションに入る。雪の積もった西部の町。ベンチに目を向けると、男女の子供達二人が互いに雪をぶつけ合って遊んでいる姿があった。近くには若い夫婦の姿が。その姿が、昔の両親と被った。
「きゃっ!」
凍っていた地面でひなたは滑り転んだ。余所見をしたままで走っていたため、思わぬ場所で世界が百八十度回った。尻餅をついて腰をさする。
「いったーい……」
夫婦が近寄ってきた。奥さんの方が心配そうにしゃがんで様子を見てきた。
「あらやだ、大丈夫?」
ひなたの母の顔とはかけ離れていたが、上品なマダムといった顔付きの奥さんは、ひなたを起こそうとした。
「だいじょうぶ、です……」
ひなたは自ら立ち上がる。散々痛め付けられた体に鞭を打ち、雪で次第に濡れてきた足を踏み出した。
「そう? ならいいのだけど」
夫婦を尻目に、ひなたは再び走り出す。水気を含んだ靴が重くなってくる。まさかここまで雪が積もっているとは思わなかったらしく、いつもの通学用の靴でここまで来ていた。長靴では走れないし、彼女は動きやすさの方を好んだ。
滝のアトラクションから人が落下してゆく。人々の嬌声が痛く感じ、ひなたは目を背けた。時間が気になる。時計を見た。
――十二時……。
遂にタイムリミットまで十二時間を切った。今頃しーさいど桜ヶ崎に居る人質達は、どのような心境で居るのだろう。きっと誰もが、ひなたが母を捜し出して自分達を解放してくれる事を、望んでいるに違いない。皆の命運を全てその背に背負っている。
ケータイを開いた。ワンセグテレビ放送を受信する。雪でヘリが飛ばせないために、しーさいど桜ヶ崎の入れる位置ギリギリまで報道陣が詰め寄り、生中継をしきりに行っている。肝心のしーさいど桜ヶ崎は小さな背景のようにしか見えない。
必死な声で、人質達の命が一秒、また一秒と縮んでいく様を、カメラのレンズを通して伝えようとしている。画面右上のテロップには、『遂にあと半日! どうなる、しーさいど桜ヶ崎』などという、何とも緊迫しているのか面白がっているのか良く分からない文字が出ていた。
――海斗君はどうなってるのかな、捜してくれてるのかな。
だが連絡している時間も惜しい。電話に気を取られている最中に、肝心の神崎世良を見逃す可能性だってある。今こうしている間も、ひなたは通り過ぎる人達全ての顔を見回していた。こんな興奮状態でなければ出来ないほどの、恐ろしいまでの集中した目付き。何者も見逃さないという強い意志の宿る瞳。
余所見をしながら走るひなたが何かにぶつかり、よろめいた。
「いってえな!」
身長の高い金髪の男が、よろめいたひなたに怒鳴り付けた。毛皮のジャンパーを着て、上から下まで光り物のアクセサリーを下品に散りばめた男だった。
「ご、ごめんなさい!」
男の迫力を見て、ひなたは謝る。
「あらあら、いいのよ。気にしないでね」
男の影から、これまた雪景色に似合わない何とも露出の高い女が現れた。面長で栗色に染めたロングヘアーの美人ではあるが、安物の香水がとにかく臭う。
女はひなたの姿を上から下まで睨み付けるようにして目を動かすと、口元を歪めて「プッ」と笑った。
「こんな子供相手に何怒鳴ってるのよ、バカね」
女は連れの男の頭を軽く叩くと、自分が先頭に立って歩き出した。
お古のダウンジャケットがダサく映ったのだろうか、それとも妙ちきりんな防寒ズボンがナンセンスだと感じたのか、それともひなたの上から下までお子ちゃまだという風に感じ取ったのか、どれだかは分からないが、明らかに女の視線はひなたを馬鹿にしていた。
――ムカつく……。




