第29話 第三章 ―イヴ― 16 Final episode
桜ヶ崎市内に戻ってきた時には、既に夜の八時になっていた。二人は夜道をバイクで飛ばし、市内にある杏条邸へと着いた。
趣のある木製の純和風の豪邸。軽く周りを何十分もジョギングして楽しんでくる事の出来るくらいの敷地がある。庭の中にも、錦鯉の放し飼いにしてある池や、ししおどしの竹の音が心地良く一日中響いているような、庶民の家には普通は無いであろう趣向もある。世界を股にかける杏条家の令嬢が住むには申し分無い屋敷であった。
どうやらこの和風の屋敷は、杏条さとりの祖母であった、杏条早苗の趣味らしかった。杏条早苗は既に故人だが、さとりは祖母をこの世で最も敬愛していた人物とまで豪語するくらいであり、祖母の好きであったこの屋敷に、自分の趣味で改修は加えずにずっと住み続けている。
普段ならば既にひなたは、さとりと一緒にこの家に帰ってきていた。温かな明かりが迎える家。安心出来る屋根のある寝床。観音開きの門は、こんな時間だというのに開いていた。太い丸太のような敷居を跨ぎ、二人は屋敷の中に入ってゆく。
「ここが杏条邸かぁ」
海斗は杏条邸の敷居を跨いだのは初めてだった。歳を経つに連れて、互いの家に出入りする事は無くなったからだ。会う時はいつも外であった。
「話には聞いてたけど、とんでもない敷地だ」
きょろきょろと物珍しそうに海斗は周りを見た。今時、純和風の屋敷というものが珍しいのだろう。ししおどしの竹の音が庭中に響く。恐らく彼は、テレビの中でしかこの音は聞いた事が無かっただろう。
「すごい家でしょ。あたし、こんな所に住まわせてもらってるんだよ」
「僕もこんな屋敷の主になってみたいもんだよ」
海斗は面白そうに足を躍らせているが、ひなたは少しとぼとぼとした足取りになっている。まるで家に近づくのが嫌だとでもいわんばかりに。
「杏条は両親が外国から全然帰ってこないんだろ。寂しくないんだろうか」
足取りは重いが、話しかけると普通に返すひなた。
「どうなのかな、あんまりそういう事言ってないよ。さとりは、小さい頃からずっとおばあちゃんに育ててもらってたから、両親は親だと思えないって言ってた。親のくせに全然娘の顔見に帰ってこないからって」
「親は居るけど、居ないのと同じって事なのか……」
何やら複雑な境遇の二人の幼馴染みの事を考え、海斗はひたすら話を聞く事だけしか出来なかった。
「さ、海斗君も一緒に家入ろう?」
玄関の敷居を跨ぐ。ひなたは丁寧に靴を脱ぎ、靴箱へと仕舞った。早速、奥から人が出てきた。長い渡り廊下の奥から、こんな和風の
屋敷には似つかわしくないスーツ姿の初老の男性が現れた。豊かな髭を顎に生やした、上品な顔付きの男だ。
「こんばんは。神崎の友達です」
海斗は軽くお辞儀する。
「戻りました……」
ひなたは小さく言うと、男性は驚いた表情で言った。
「ひ、ひなたお嬢様ではございませんか! 一体どうなされたのですか、さとりお嬢様は……」
どうやらさとりと一緒に、お嬢様扱いであるらしいひなた。だがさとりの方がやはり会長の令嬢という事で最優先であるらしい。
「さとりは……」
「我々も必死で捜索しておりますが、しーさいどの事件に巻き込まれたとの話が多く」
真冬だというのに、男性はハンカチで額に浮いた脂汗を拭き取っていた。ひなたは真摯な態度で、男性に説明する。
「そうです。あたしと一緒に、さとりは捕まりました。あたしは、テレビでも出てたと思いますけど、犯人達の要求を叶えるために動いてます。みんなを助けるために」
「おぉ、やはりそのような事態になっておりましたか。私はひなたお嬢様を信じておりますが、屋敷の一部の女中どもが騒いでおるのです。さとりお嬢様を残して、ひなたお嬢様が一人で逃げ出したのではないのかと。普段から、ひなたお嬢様の事をそのように扱うものではないと叱ってはいるのですが。申し訳ございません」
どうやら、この家の中でひなたの事を悪く言っているお手伝いさんがいるようだった。恐らく理由としては、元々孤児だったひなたが令嬢であるさとりと友達だった事で養子縁組し、彼女らにとっては『突如現れた余所者をお嬢様として丁重に扱いなさい』と命令されているも同じという事なのだろう。元孤児が自分達より上の立場に踊り出るというのが、気に食わないのかもしれない。
「いいんです。あたし、こんな所に住めるだけでも幸せですから。お手伝いさん達にとっては、あたしが邪魔なのは当たり前ですし」
男性は申し訳無さそうな顔をしていた。どうやら男性はひなたやさとりの世話係の一人らしく、ひなたの事を親身に考えてくれる数少ない味方のようだった。
「神崎、本当にそんなのでいいのかい……?」
海斗は、既に諦めたような顔付きのひなたに聞こえないくらいの小さな声で、呟いた。誰に答えを求めるでもなく。
「ごめんなさい、今は時間が無いんです。あたし、さとりを助けます。みんなを助けます。だから、今は詳しく話している時間は……」
「分かりました。ですが、無事にさとりお嬢様と帰ってきてください。私は、お二人が成人するまでは目を離さないと決めているのですから。杏条家の執事として……そしてお二人の親代わりとして」
男性は深々とお辞儀をすると、廊下を歩いてゆく二人を見送った。
ひなたは廊下を黙々と歩きながら、強く前を向いていた。
――あたしは、多くの人の想いを背負ってるんだ。このゲームだけは、負けられないよ!
ひなたの戦いは佳境へと差し掛かっているのだろう。友達だけではない。先生だって巻き込まれた。まともな人生を歩き始めた元犯罪者だって、二人の令嬢を親身に思う執事でさえも。それ以外だって、数え切れないくらいの人々が事件によって巻き込まれた。それを解決する手段を持つのは、恐らく彼女以外に誰も居ない。
「ここだよ、あたしの部屋」
ひなたは、ある部屋の前で立ち止まった。入り口から相当歩いている。家の端っこまで来てしまったのではないだろうか。
「神崎の部屋に入るの、初めてだね。そもそもこの家もだけど」
「へへ、汚いけどね」
苦笑しながらひなたは障子を開ける。滑りの良い障子が、音も無く開いた。すぐさま電気のスイッチを押すと、女の子の部屋の割にはあまり飾り気の無い簡素な和室が広がっていた。狭いわけではないが、
友達が四、五人も入れば窮屈に思える、六畳ほどの広さだ。壁に掛かっているのは可愛らしいキャラクター物のアナログ時計と、カレンダーくらいである。だがその可愛らしさも、所々剥がれかけている壁紙のせいでくすんでいる。
白いちゃぶ台が一つ部屋の中央に置かれており、小さなオレンジ色の丸い座布団が敷かれている。恐らくあそこに座って普段はくつろいでいるのだろう。壁際の背の低い本棚には漫画や、年頃の少女に相応しい恋愛物の小説のタイトルがいくつか並んでいる。本棚の上には安物と思われる、画面の角の丸い旧式の十四型テレビが設置されている。
部屋の場所や規模といい、壁紙の剥がれ具合といい、床の畳の汚れ具合といい、置いてある家財道具のチープさといい、こんな豪邸に住んでいるお嬢様にしては、不相応な待遇ばかりだ。決して表には出さずとも、実際ひなたがこの家で虐げられている現実が想像できる部屋であった。
「ここが、神崎の部屋かぁ……」
初めて入った幼馴染みの女の子の部屋に興味津々らしく、海斗は色んな所を眺め回していた。だがやはり部屋の小ささや置いてある家財道具のみすぼらしさなどが目に付いたらしく、次第に彼の顔は険しくなっていった。
「は、恥ずかしいよ。あんまり部屋の中じろじろ見ないで」
ひなたは照れ、机の側にちょこんと座っているミッケキャットのぬいぐるみに手を伸ばした。とても大きな猫のマスコット。愛らしいぴょこんとした耳が、ひなたの手の平と同じくらいの大きさである。恐らく、母に買ってもらった当時の値段は、万単位であったに違いない。ここまで大きなぬいぐるみはそうそう無い。ひなたの一番の宝物であった。
「これ。多分、このぬいぐるみのどこかに……」
ひなたは畳に腰を下ろした。海斗も向かい合って座る。ぬいぐるみのどこに隠されているのかが分からない。ずっと十三年間大事にしてきたぬいぐるみだが、中身を見ようなどとは普通は思わない。
「一体、どこに隠されてるんだろう」
「バラバラにしちゃえばすぐ分かるけど、お母さんのたった一つの形見だから、それはしたくないの……」
海斗は頷いた。
「分かってるって。だからお母さんに捨てられたと思いつつも、ずっと大事に持ってたんだろ。君自身がお母さんを大事に思ってたから」
ぬいぐるみを回しながら、二人で探る。何か挟まっていたりしないか探して数分が経った。ふと一箇所、変な場所がひなたの目に止まった。
「ここ……、小さく穴が開いてる!」
背中の部分に、何か切り取られて開けられたような穴が、ぬいぐるみの服の間にあった。恐らく今までずっと気付かなかったのは、ぬいぐるみが服を着ていたからだ。恐らくその中に。
「あった! これ……」
ひなたは小さい穴に細い指を突っ込み、中に挟まっていたくしゃくしゃの紙を引っ張り出した。海斗も覗き見てくる。
ピンク色をした古い便箋だった。だがちゃんと文字は読めた。確かに、文体からして神崎世良が残したものであろう。
ひなたは、その言葉を音読した。
「この手紙をあなたが読んでいる時、もうわたしは人間を捨てているでしょう。もうあなたに会う資格は、わたしにはありません。わたしの事は忘れて、元気に生きてください。それが、母の願いです。
けれども、もしあなたがわたしを必要として、会いたいと少しでも思ってくれたら、わたしはその時こそあなたともう一度会いたいと思います。あなたの誕生日の十二月二十五日に毎年、東京ユニバーサルランドで待っています。あそこはあなたとの思い出の場所だから。母はそこに居ます。もしまた会える時が来るならば、あの場所で再会しましょう。
わたしは、家族が大好きです。ですが、こんな形で別れる事しか出来なかった不器用なわたしを、どうか許してください。ごめんなさい。そしてさようなら。わたしの人生での一番の宝物へ、この手紙を残します」
読み終った時、ひなたの手は震えていた。
「明日、十二月二十五日に、お母さんが東京ユニバーサルランドで待ってる……」
「明日、か。よりによって」
海斗は口を硬く閉じて、考え込んだ。
「海斗君、お願い! 今すぐ明日の東京ユニバーサルランドのチケットを手配して!」
ひなたは、海斗にすがり寄った。必死な顔で。最後の藁をつかもうともがいて。
「……明日はクリスマスだ。今からあそこのチケットを取るのは厳しいよ。当日券は無いって聞くし」
だが、ひなたは諦めなかった。海斗を押し倒しそうな勢いでかじりついた。
「あたし、お金ならいくらでも払う! がんばって働いて、絶対に返す! 望むのならあたし、この場で海斗君に抱かれたっていい。メチャクチャにされたっていい! だから、お願い……」
擦り切れそうな声で、ひなたは海斗の体にしがみ付いていた。もう少しでつかめる手を、ここで逃すわけにはいかないと。ひなたは、このまま谷底へ転落するわけにはいかなかった。身を擦り切る覚悟をしたひなたは、プライドなどとっくに捨てていた。
海斗もその必死さに負け、重い口を開けた。
「……神崎から金なんか取れるわけないじゃないか。そこまですがり付かれて、断れるわけがないよ。何とか手配できるように動いてみる! 親父にも協力してもらおう。最善を尽くすよ」
ひなたの顔が、元気を取り戻してきた。太陽のように笑うはにかんだ久しぶりの笑顔が、彼女に宿った。
「ありがとう……」
海斗に抱き付く。本当に嬉しそうな顔で。知らず知らずの内に、海斗もひなたの細い体を抱き締めていた。
「これで、三度目だね。その笑顔」




