第30話 第四章 ―死命― 1
第四章 ―死命―
十二月二十五日の朝は、髪の毛の先まで凍り付きそうなほどの冷たい空気であった。ひなたは海斗の家のベッドから起き上がると、疲れた声を上げながら伸びをして、カーテンを開けた。
一面に白い世界が広がっていた。一瞬、まだ寝ぼけているのかという風に目をこするひなた。だがそれは見間違いなどではなく、今も空からちらちらと舞い降りる冬の贈り物であった。
――雪……。ホワイトクリスマス。
ひなたは外の世界を見つめながら、しばらく惚けていた。
クリスマスに雪が降ったのは、十三年前以来だった。まるでこの日は、この世界自体があの日の白の降り散る東京ユニバーサルランドを、再現しようとでもしているかのようだった。
世間では、文字通りお祭り騒ぎなめでたい日。恋人達が一斉に活気付く日でもある。だが、ひなたにはそんな遊んでいる暇は無い。
今日中に母を見つける使命がある。もしその要求が達成できない場合は、数え切れないほどの人々を巻き込んだ篭城事件が、最悪の形で結末を迎える事になるだろう。
――お母さん。あたし、十七歳になりました。
夕べ家に戻った時に着替えた綺麗なワイシャツの上に、ブレザーを羽織る。あえて学生服姿で居るのは、テレビなどでひなたの姿が出ている以上、この格好でいた方が向こうの母から見た場合、目に付くだろうと思えたからだ。
一階に降りると、既に日立家の三人は朝食の席に着いていた。ひなたは小さくお辞儀をした。
「おはようございます」
「おはよう」
海斗の父が低い声で返事をする。昨日一日、色々調べて回ってくれていた。だが顔を合わせるのはこれが初めてだった。何とお礼を言えばいいのか、ひなたも分からないようであった。
「おはよう、座りなよ」
海斗も元気に朝食を摂っていた。意外なまでに大食な彼は、朝っぱらだというのに白いご飯を豪快に口に運んでいた。
「今、用意するわね」
海斗の母が立ち上がる。
「今日が最終日なんだろう? しっかり栄養とって、頑張りなさい」
海斗の父は、豪快に笑っていた。表裏の無さそうな一直線な視線は、息子も似たようなものを持っている。海斗は、まさにこの親に育てられた真っ直ぐな男なのだというのが分かった。
日立家の朝食の席は楽しいものであった。ひなたは杏条邸に居る時はいつも『他所の子』というような余所余所しい扱いを受けていた。一緒に寝泊りしているお手伝いさんは何人かいるが、さとりばかり可愛がっていて、ひなたは明らかに差別されている。所詮、拾われてきた余所者なのかもしれない。
「でさぁ、その時の神崎ってば、慌てて全部ひっくり返しちゃったんだよ」
「は、恥ずかしいよ。あんまり言わないでよ」
海斗は両親に、ひなたの紹介を兼ねて昔話を面白おかしく語っていた。主な話は、楽しい話。暗い部分の多いひなたを気遣っている事は明白であったが、彼女にとっては明るい話だけを思い出していられるのは幸せであったかもしれない。
「うむうむ。海斗、いい子を捕まえたな。これでお前の将来は安泰だ」
「どういう意味だよ、親父」
海斗は力んで反論した。
「そういう意味よね、お父さん。海斗ってば、勉強とパソコンばっかりいじってて、ちっとも女の子に興味無いのかと思えば、意外としっかりしてるのね。お父さん似だわ。お父さんも若い頃は……」
照れたように海斗の父はひげをいじっていた。
「あ、あたしは……」
ひなたもしどろもどろになっている。海斗のフォローのしようがない。
「勉強とパソコンばっかりって、人をオタクみたいに言わないでくれー! 僕にはちゃんと、バイクっていう趣味もあるじゃないか」
海斗の父は、顎を突き出してからかっていた。
「おうおう、金の掛かる趣味だな。こいつめ」
「……面目ないです」
海斗は口で負け、しゅんとした。ひなたもいつの間にか笑いを湛えている。普段あまり笑わず、無表情でいる事が多いが、笑いが嫌いなわけではない。ただ、笑う機会が少ないだけだった。
「あっ」
笑った拍子に、箸を転がり落とすひなた。物を落としやすい癖は昔からだった。箸は二本とも床に転がってしまい、ひなたは急いで拾った。
「あらあら、違うお箸を使いなさい」
海斗の母は素早く立ち上がり、キッチンから代わりの箸を持ってきた。
「あ、ありがとうございます」
ひなたは茶色の箸を受け取った。海斗の母は椅子に座りながら、何か気付いた様子であった。
「そういえば、ひなちゃんは左利きなのね」
「はい」
ひなたが左手で箸を持っている事に、海斗の母は気付いたらしい。
「ふむ、良く左手などで箸やペンが持てるものだ」
だがひなたは自信無さそうに言った。
「でも、左利きなんていい事ないですよ。昔、お父さんからはペンも箸も右手に直させられそうになったりしましたし。小学校に入ってからは、先生からも『左ぎっちょ』なんて呼ばれてましたし」
「あぁ、僕も先生が言ってるのを昔聞いたよ。あのオバサン先生、頭ガッチガチに硬い昭和人間だったから、他の子にも差別用語とかけっこう使ってたしな。神崎が気にする事じゃない」
海斗はフォローを入れる。ひなたは嬉しかったのか、はにかんだ笑顔を作った。
「でもあたし、一応右手も使えるんですよ。下手ですけど。お父さんに泣く泣く特訓させられましたから」
右手に箸を持ち替え、ぎこちない動きでご飯を口に運んで見せた。だが次の瞬間、箸をぽろっと落としそうになり、ひなたは慌てた。
「だめじゃん」
鼻で笑う海斗。
「あれー、前より下手になっちゃった」
誤魔化しながら、ひなたは慣れた左手に持ち替えた。本人曰く、左手にはだいぶ劣るようだが、右手も使えない事はないらしい。一応、両利きという言い方も出来るのかもしれない。
「ふむ、ならばどちらかの手が怪我をしてももう片方の手で包丁を握れるというわけか。便利だな」
するとひなたは、顔をしかめた。
「あたし、料理できないんです」
そこに海斗の母が突っ込む。
「あらあら、昨日も私が朝ごはんを作ってる時、顔を背けてたわね。それと関係でもあるの?」
「火が嫌いなんです」
海斗は慌てて場を取り繕うように言った。
「あ、はは。まぁ料理はさぁ、いいんじゃない。別に」
明らかに無理な話題の変え方をする。
「海斗……?」
その不審さに両親も気付き声をかけるも、海斗は無視した。
「あ、そうだ。料理で思い出したけどさ、隣町の駅前にウマいスペイン料理の店が出来たんだってさ。今度一緒にさ、食いに行こうよ」
ひなたもぎこちなく返事をする。
「う、うん。わかった、行こうね」
どうやら気を遣ってくれた事が分かったらしい。ひなたはぎこちなく笑顔を作る。
「気にするなよ」
海斗は小さく耳元で呟いた。彼は優しかった。全て知っていて、その上で気を遣っている。生半可な気持ちではない。
ひなたはまずくなったご飯を一気にかっ込んだ。女の子にしてははしたない食べ方。だが、その場で止める者は誰も居なかった。




