第24話 第三章 ―イヴ― 11
ひなたは背後の男を狙った。自らの腕をつかんでいる、太い腕。左腕を狙って、ひなたは思い切り歯を立てて噛み付いた。肉を食い千切りそうな勢いで。
「ぐああ、何しやがる。このくそ女!」
男が怯んだ。左の二の腕には歯形がくっきりと残っており、皮が破れて血が滲み出ていた。ひなたの利き腕である左手を離す。ひなたはチャンスとばかりに体を翻して左手で思い切り目上にある顔面に向かってビンタを打ち付けた。
男は右手も離した。ひなたの全力を込めたビンタは男の右の眼球を直撃し、目が開けずに視界が奪われたようだった。ひなたは走った。綾瀬ともう一人の男がそれに気付いた時は、既に遅かった。
「じゃあね!」
ひなたは噛み付いた男の血を吐き出しながら、手すりを鉄棒の前回りのように回って、歩道橋を落下していった。綾瀬達の目の前で、まるでサーカスの曲芸の一部でもあるかのように、ひなたは軽々と手すりを飛び越えて、地上へ。
「マジかよ、あの女本当に飛び降りやがった!」
綾瀬ともう一人の金髪が手すりから下をのぞき見るも、遅すぎた。
海斗がひなたの体を両手で受け止めた。想像以上の衝撃にバランスを崩し、片膝を地面に着く。だがひなたを落としては地面に叩き付けてしまう。海斗は歯を食いしばって耐えた。人一人の落下を受け止めるのは、例え女相手とはいえ容易ではない。もし男の体重であったなら、海斗の細い腕はへし折れていたかもしれない。
「ごめんね、あたし重いでしょ」
ひなた自身もかなりの衝撃を受けていたはずだったが、遥かに海斗の方が腕に来ているだろう。
「……軽いさ」
海斗は笑った。ひなたを腕から降ろすと、両腕が崩れ、ダラリとした。衝撃でやられ、力が入らないようだった。彼は顔をしかめながら二、三度両腕を振り回すと、急いでバイクのキーを回した。
「乗って!」
海斗はひなたにヘルメットを手渡す。自身も頭に被ると、エンジンをかけた。唸りを上げて黒煙が吹き出す。
「いいよ、行こう!」
ヘルメットを被り、ひなたは合図を出す。
「しっかりつかまって!」
ひなたは海斗の体に思い切りしがみつく。直後、バイクは前輪が浮くのではないかという勢いで急発進した。
「くそ、日立海斗めええ、てめえは今日も俺様を邪魔するのか! おいお前ら、追いかけるぞ!」
視線の定まらない目で綾瀬は叫ぶ。仲間達と共に、近くのコンビニに停めてあったバイクへと走った。
「許さねえ、てめえみたいな男はムカつくんだよ!」
二人は東京都へ入るために、ひたすら国道をスピードを上げて進
んだ。海斗は先ほどの腕の衝撃など何とも無いかのように思い切りアクセルを吹かし続ける。
「午前中に父さんと色々調べて回ってたけど、結局ほとんど成果は出なかったよ。神崎の言う野田教授がもう、全ての頼りかもしれない」
「そっか……。ありがとね、何もかも協力してくれて」
ひなたは申し訳無さそうに海斗にお礼した。自分一人の力だけでは恐らくここまで来れなかっただろうからだ。
「まだ何も終わってない。これからだよ」
彼の言葉からは、強い意志が感じられた。決して諦めないという信念が伝わってくる。
「ねぇ、一つ変な事聞いていいかな?」
ひなたは悲しそうな声で、抱き付く腕をぎゅっと締めた。海斗は無言で頷く。
「あたしには、何の価値があると思う?」
海斗は鼻で笑うような言い方で返した。
「何を言い出すんだよ」
ひなたは馬鹿な質問をしたとばかりに少し目を瞑ると、謝った。
「ゴメンね、変な事聞いちゃって。……忘れて」
「あんまり思いつめるなよ。神崎は一人じゃないんだ、僕だって相談にくらい乗ってあげられるさ」
「ありがとね」
さらりと述べたありがとうの言葉。だが、嬉しそうなありがとう、だった。心の底からホッとするような響きの。
「カッコ良かったよ」
小さく呟く。
「何か言った?」
海斗は聞き直してくるが、ひなたははぐらかした。
「なにも言ってないよ。運転に集中しなさいな!」
「はーいはい」
海斗は気になっていたようだが、ひなたの言う事も最もだという風に前に視線を固定した。海斗の中型バイクは良く手入れされており、走る音も綺麗で気分が良い。ひなたはいつしかその音に酔いしれ、流れ行く景色をひたすら眺めていた。
「高速に乗るよ。もっとスピード出すから、しっかりつかまっててくれよ」
「うん、わかった」
ひなたは数分の間、自分の世界に陶酔していたようだが、海斗の声かけでまっすぐに背筋を伸ばした。いくらなんでも、油断していて振り落とされたなどとなったら笑えない。
神奈川県と東京都を結ぶ、比較的新しい高速道路。片側三車線もの広い幅を取って作られた、直線の多い道だ。高架線の上に通っているので、横風がかなり強い。桜之インターチェンジから高速に乗ると車の量は僅かであり、急いでいる今の状況では非常にありがたかった。
海斗はハンドルを取られそうになりながらも、しっかりと両腕で固定していた。
「この調子なら、割と早く着きそうだね!」
ひなたは嬉しそうに言った。
足元を白線が瞬間的に流れてゆく。一定感覚で地面に塗られているそれはどんどん流れるスピードを増し、やがては一本に繋がっているのではないかと思える連続的な線に見えてゆく。
「……いや、それはどうかな」
海斗の声が、不安を煽る。だがその不安の正体はすぐに分かった。
バックミラーに何かが映っている。三台のバイクだった。徐々に猛烈にスピードを上げながら追いついてくる。
「まさか」
「きっと、そのまさかだよ」
ひなたは首を後ろに向けた。遥か後方から、爆音のような音を立てて大型バイクが迫ってくる。綾瀬雅人だった。信じられない執念深さである。高速道路までも追いかけてくるとは。
「ちっ、ブラックローズが詰められるなんてとんでもない速さだな! そうか、あいつら大型バイクなのか。だからパワーが違いすぎるんだ」
海斗の言うブラックローズというのは、この今乗っているバイクの名称である。日立家の特注品の中型バイクらしい。中型のギリギリのスピードチューニングをされているようであった。だが綾瀬のバイクは遠目からでも分かる大型バイク。パワーも遥かに中型バイクを凌いでいる。オマケに二人乗りのために重さでスピードも出にくい。今のこのマシンでは綾瀬を振り切る事は難しいだろう。
「どうしよう、海斗君!」
「高速を走ってる以上、逃げられない。だったら戦うしかない!」
海斗は左手をコートの内側に突っ込むと、何かを取り出した。彼が持ち出してきたものは、銃。女性の手にも馴染む大きさの拳銃だった。ひなたはとんでもない物を見たとばかりに、息を呑む。
海斗は後ろ手でひなたにそれを手渡そうとしてくる。何だか良く分からない内にひなたは銃を手にさせられ、困惑した。
「海斗君、なんてもの持ってんの」
「安心しなって。モデルガンだよ、BB弾撃つやつ。こんな事もあろうかと、武器になるかもしれないと思って持ってきたんだ」
ひなたはモデルガンと聞いて安心したらしく、それを左手に持った。
「用意がいいね。呆れるくらい。で、これであたしに応戦しろってわけね」
「ご名答。ま、ちょっと改造してあるけどね。実銃には及ばないけど、薄い鉄板くらいなら貫通する威力があるよ。入れてある玉も金属製だしね」
「それ、ちょっと危ないんじゃないの……?」
「今は緊急事態だよ。なりふり構ってなんかいられない。降りかかる火の粉は払うべきだ」
『緊急事態だからなりふり構っていられない』。前にひなたもそう考えて国立先生を利用しようとした。危ない方向だが、二人は考え方が変な意味で少し似ているのかもしれない。
綾瀬がどんどん近づいてきている。既に顔が誰だかはっきり認識できるくらいに、二人との距離は縮まってきていた。綾瀬達三人はヘルメットを被っていない。事故を起こしたら致命傷を負うのは確実に思われるのに。しかもこの状況、ひなたがモデルガンを撃ったら、撃たれた弾に向かって綾瀬が顔面から突っ込んでゆく形になる。顔にでも弾を当てたら相当な威力になる事は間違いなかった。ある意味これは正当防衛の意味合いに入るのであろうか。やりすぎかもしれない。
子供でも知っているであろうこんな約束、
『モデルガンは人に向けて撃ってはいけません!』。というのをこんな形で破る事になろうとは、ひなたは夢にも思わなかったであろう。初めて手にしたモデルガンで、彼女は初めて撃つ相手が訓練用の的ではなくて『人間』になった。
ひなたは右手で海斗にしがみ付きながら、銃を持った左手を後方に向けて、走り寄ってくる綾瀬に狙いを定めた。走りながらの不安定な場所、時速百キロのスピードの中。ひなたは銃を撃った事など無い。この状況では当たらなくても仕方ないかもしれないが、当たらなければ確実に連中に追いつかれる。
「来るなら撃つよ!」
「上等だコラアアァ!」
綾瀬は興奮した様子で、ヘルメットを被っていない頭を突き出してきた。右手でアクセルを吹かしながら、左手には太い角材。まずい状況だった。恐らく綾瀬は追いついたら暴力を振るってくる。薬中毒患者な以上、正常な判断を欠いていてもおかしくはないのだ。運転している海斗を狙われたら一貫の終わりである。バイクごと転倒して大事故に繋がるだろう。
「ダメだ振り切れない! 神崎、何とか時間を稼いでくれ。当てるチャンスを見つけるんだ」
「やってみる!」
海斗はアクセルを思い切り吹かし続けている。だが大型二輪のパワーには勝てない。海斗の中型バイクには重さでスピードが限界まで出ないようだった。男達がどんどん迫る。十メートル近くにまで。
「そんなに怖い顔するなよ、神崎よぉ」
モデルガンを顔面に向けられている綾瀬は怯まない。それどころか、仲間達と一緒に三台のバイクで包囲しようとしてくる。ひなたは焦り、引き金に指をかけた。
「当たって!」
重い引き金を引いた瞬間、鉛弾が飛び出した。だが綾瀬のバイクに当たっただけで、綾瀬自身には当たっていない。
「ギャハハハハ、俺様は平気だぜええ」
綾瀬はヘラヘラしながら、高速で走るバイクの上で尻を浮かせてバウンドして見せた。舌を出して下品に笑うその様は、気が狂っているとしか表現できない。
「今日の雅人は最高にノってるじゃねえかよ、イェェェェァア!」
まるで儀式のように、周りの仲間達も奇声を上げて同じようにバウンドした。海斗のバイクを取り囲むようにして走る三台は、地響きのような振動を立てながらバウンドを繰り返した。
「な、何なの、こいつら……」
ひなたはそのシンクロした動きに、一種の不気味さを覚えたようだった。その異常さから、単なる薬中毒ではない。完全にイカれている。しかも連中は、そんな異常行動をしながらゲラゲラと笑いを浮かべているのだ。
「そら待ってろよ神崎陽詩、すぐにその悪者から俺様が助け出してやるぜええ」
ひなたの顔が変わった。何かが切れて、呆然としたような目付き。だがすぐにそれは怒りに変わり、彼女は叫んだ。




