第23話 第三章 ―イヴ― 10
ひなたは少し諦めかけようとした。だが次の瞬間、野田教授はまるで人が変わったかのような言葉遣いで返してきた。
「やはり、そうだったのだな……。あの時の世良君はまともではなかった。何かとんでもない事態を考えていたが、現実となっていたとは」
――え?
「陽詩ちゃん、一つ確認したい事があるのだ。世良君はいつ頃失踪したのだね?」
呆気に取られながらも、ひなたは答えた。
「お母さんがいなくなったのは、十三年前のクリスマスです。あたしが丁度四歳になった日です」
「時期も一致するか……。ようやく、この日が訪れたな。ワシも待っていた。ようやく世良君の事を知る人物が現れてくれた、ありがとう」
野田教授の声の質が変わった。トボけた爺さんのような喋り方から、一転して道を究めた学者のような知的な喋り方。高齢ではあるが貫禄のある、『老師』というような呼び方が似合いそうだった。
――この人は、本物だ……。この人が、あたしの会うべき人! 間違いない! この人はお母さんの事を良く知っている!
ひなたは突然の教授の言葉に、何か深い意味を感じて食い付いていた。
「お、教えてください! なにか知ってるんですか?」
「うむ、とりあえずこの電話では多くを語る事は出来ない。今は最低限の事だけを話そう。次の講義までの時間も押しているのでな。
実は世良君はな、その失踪日の数日後にワシを一度尋ねてきている。ワシを頼ってきたようだったが、何やら終始混乱している様子で、時折支離滅裂な言葉を喋っていた。ワシはお茶を用意するために少しだけ席を外した間に、世良君は忽然と消えた。その時、机の上に一枚のメモと、彼女の持ち物が一つだけ残されていたのだ。今でもその品は大切に保管してある」
「メモと持ち物が一つ?」
何やら暗号めいたそのキーワードが引っかかる。
「メモには綺麗な字で、こう書かれていた。『私が世界一愛した宝物が貴方の目の前に現れたら、これを渡してあげてください』とな。彼女が世界一愛した宝物というのが何なのかは、彼女にしか分からない。君に、この意味が分かるかね? 残念だが、私には分からなかった」
――お母さんが世界一愛した宝物? なんなのかな。
「もう一つの、お母さんの持ち物っていうのは?」
「これは、私も何なのかが分からないのだ」
おかしな回答だった。手元にあるはずなのに、何故その持ち物が何なのかが分からないのか。
「どういう事なんですか?」
「それは、未開封の品なのだよ。外側は何重にも真っ白な包装紙で包まれている。日光に透かして見ても中は窺い知れなかった。箱状の物なのだが、私宛の荷物でない以上、開けるわけにもいくまい」
――未開封の、箱……?
明らかに、野田教授に渡す事を託した『誰か宛て』の小包みらしかった。誰にも届く事無く、誰に届けていいのかも分からず、野田教授は開封する事も捨てる事も出来ずに十三年間持ち続けていた。
それだけ、教授にとっても神崎世良というのは特別に大事な教え子だったのだろう。
「もし気になったのなら、一度大学に来なさい。世良君の娘なら、あの小包を開く権利はあるだろう。多分、あれが世良君の最後に残したメッセージだ。もし彼女が本当に行方不明になっているのだとしたら、あの小包の中に何か大事なキーワードが眠っているのかもしれない」
きっとこれが、神崎世良に繋がる最後の鍵かもしれなかった。もしこれが外れであればもう他にアテは無いし、時間も無くなってしまう。デッドラインがやってくるのは確実になる。野田教授がその小包を開いて中身を教えてくれるつもりは無いようだ。あくまでも、自分には開ける権利は無いと主張しているのだから。
――まだ午後の一時になってない。時間はある!
「あたし、今から教授の所に行きます! 多分、着くのは夕方になると思いますけど、帰らないで待っていてください!」
「……分かった、待っていよう。遺伝子工学科の第一研究室に私はいる」
野田教授との電話を終えたひなたは、唾を飲み込んだ。今までで一番有力で、強い武器をつかみかけた。これは大きな賭けだ。今からかなり離れた所にある世田谷大学へ向かってしまったら、もう今日は他に何も出来ない。野田教授の持っている鍵が大外れであったならその時点で全てはお仕舞いだった。
――なにもしないで後悔するより、出来る事をしたいよ。
決意の次に必要になるのは、大学までの『足』だった。そこは、一番の協力者に何とかしてもらうのが最善だろうと思えた。
「海斗君……」
彼のバイクがあれば、大学までは高速に乗って楽に着く事が出来る。しーさいど臨海公園駅が爆発炎上し、この街からは電車に乗れない。かといってバスやタクシーで向かうには所持金や掛かる時間からして無理があった。
海斗はひなたからの電話を待っていたらしく、一コールですぐに電話に出た。どうやら車からは既に降りているようだった。父の声やラジオ音はもう後ろでしていない。
「やぁ、どうだった?」
ひなたは再び、野田教授とのやり取りを簡潔に海斗に伝えた。海斗は待ってましたとばかりに、声を張り上げた。
「なるほど、それはかなり有力に思える。ビンゴかもしれないな!」
「でしょ? 行こうよ。世田谷大学に」
「分かった。今はもう、桜ヶ崎市内に戻ってきて、バイクで動いてるんだ。このまま迎えに行くよ」
海斗が乗り気になってくれた事で、ひなたは一気にテンションが上がっていた。何とも快活な声で居場所を伝える。
「あたし今、しーさいどの近くにある四丁目の歩道橋の上にいるんだ。国道をバイクで行けば、すぐ見えると思……」
ふとひなたの背後に、数人の人間が立った。その人間はいずれもひなたよりも背が高く、言い知れぬ威圧感を醸し出している。ひなたはその気配に気付き、ケータイを耳に押し当てたまま、ゆっくり振り返った。
「キャアアアアア!」
ひなたは恐怖を体現したような絶叫を上げる。目と鼻の先に、下卑た男の顔が押し付けるようにして存在していた。その顔は、昨日海斗と一緒にハンバーガーを食べていた所、いきなり割って入ってきた頭のおかしい男だった。
「神崎、どうした! 何があったんだ!」
電話から海斗の叫びがするも、ひなたは目の前の状況に夢中で全く返事が出来なかった。
――綾瀬雅人! 何でここに!
綾瀬は汚らしく舐め回すように目をギョロギョロと動かし、品定めをしているかのようだった。
「ハッハー、また会ったな神崎陽詩」
今度は奴の仲間と思われる男達が二人いた。いずれも図体の良い、不良のような金髪トサカ頭であった。その二人も、ひなたの事を卑しい目で見下ろしている。
ひなたは三人の男達に囲まれた恐怖で声が出なく、ビクビクしながら歩道橋の手すりに追い詰められていた。ケータイは無意識の内に失くさないようにしっかりと仕舞っている。
綾瀬は爬虫類のような細い舌を見せ、気が狂ったような笑みを浮かべていた。
「昨日はよくもやってくれたな。見ろよ、この右腕の傷。昨日お前のせいで店の前でスッ転んで切っちまった。覚えてるよなあ? お前が俺様に向かって店の看板転がしてきやがって」
綾瀬は茶色の安っぽいジャケットを脱ぎ、筋肉質の右腕の袖をまくって見せた。二の腕に包帯が巻いてある。血が染みており、昨日から替えられていない事が見て取れた。
右の男が癖のある高い声で言う。
「そうだぜえ、怪我させちゃって一体どーやって責任取ってくれんのかなー、おねーちゃんよー、あーん?」
「ご、ごめんなさい……」
ひなたは一言、小さく萎縮して発した。だがその弱々しい子犬のような発言は、逆に男達の感情を増幅させてしまったようだった。
「ヘヘヘ、何だよ何だよ雅人よ、この子話に聞いてた以上に可愛いじゃねえかよ。お前だけにはもったいねえなぁ」
左の男が、似合わない頭のキャップをいじりながら、ひなたの頭からつま先までどろりとした視線で舐め回した。
「俺様はなぁ、お前の役に立ちたいんだよ。分かるだろ? な」
これ以上下がれないひなたに近づき、綾瀬は泥の付いた手で頬に触れた。綾瀬が触った瞬間、ひなたの全身の毛が逆立ったように一瞬震えた。身の毛もよだつ、というのはこういう事を言うのだろう。 綾瀬の手の泥の付いた頬を目で追い、ひなたは一層縮こまる。このままでは男達の成すがままにされてしまう。武器になりそうなものも何も持っていない。
「それとも、何だ。返事しねえで、しかもボタンのはち切れたシャツ着て胸元見せて、そんな目ェしてるって事は、誘惑でもしてるってか? ハハハ、こいつぁいいや。だったら今ココでヤッちまうかあ、オラオラァ! ホテル代が浮くぜえ」
綾瀬はいたぶるようにひなたの左手をつかむと、強い力で引っ張った。
「やめてえ!」
ひなたは搾り出した声で精一杯抗議するも、男達の力の前には成す術も無い。引っ張られた左手を投げ飛ばされるようにして、ひなたは歩道橋の真ん中に仰向けに倒された。
「うーんいいぜえ、その怯えきった顔。やっぱり女ってのは怖がってる時の顔がたまんねーよな。メチャクチャにしてやりたくてウズウズしてくるぜえぇ」
綾瀬の顔が醜く歪む。瞳孔がかっと見開き、息遣いが荒い。こんな寒空だというのに、額には脂汗が浮いている。昨日もそうかもしれないとひなたは思ったようだが、綾瀬の様子は完全に薬中だった。
間違いなく、綾瀬は麻薬を乱用しているだろう。もしかしたらこの仲間達でさえ。麻薬中毒は気分の高揚などに留まらず、性欲に対する衝動も増幅させる副作用が見られるらしい。
男達が囲んでくる。一人が真上から見下ろしていた。
「おい、こいつきっと処女だぜ。このビビリ方、普通じゃねえよ。面白くなってきやがったなあ、ギャハハハ。初体験がこんな野郎ばっかりでゴメンなぁあ、悪く思うなよ! ギャハハハハハ」
運も悪かった。誰か通りさえすれば助けも求められるが、人の気配が回りに全く無い。下の国道は車が猛スピードで飛ばしている。わざわざ車を停めて、チンピラから哀れな女を助けに来る物好きなど誰もいなかった。
どう考えても女一人で立ち向かってまともに勝てる相手ではなかった。ひなたは急いで逃げようとして、起き上がりかけた。歩道橋の手すりに手を掛ける。隙間を縫って走り出そうとした時、男達は逃げようとするひなたの両腕をつかみ上げると、背後から押さえつけた。
「お願い、やめて! イヤ!」
ひなたは無我夢中で逃れようと暴れた。このままでは本気で暴行を受けてしまう。泣きそうな声で叫ぶ女の声などに耳も貸さず、綾瀬は己の欲望のままにひなたの破れかけのシャツに手を掛けようとする。
その時、歩道橋の下から誰かが叫ぶ声が聞こえた。男達も反応し、視線が向かう。
下にいたのは、海斗だった。黒いトレンチコート姿で、バイクが側に停まっている。上に向かって彼は叫んでいた。
「神崎、そこから飛び降りろ!」
「海斗君? 海斗君、助けてえ! 綾瀬が!」
ひなたは両腕を押さえつけられている状態で、喉がイカれそうなくらいの声で思い切り下にいる海斗に向かって叫んだ。
「くそ!」
海斗が助けに入った所で多勢に無勢なのは分かりきっていた。逃げるために一番な事は、このままひなたが飛び降り、バイクで逃走する事だった。危険だが、それしか方法は無い。
「日立海斗か。クハハハ、陽詩はここにいるぞ! 悔しくねえのか?」
海斗は答えなかった。だが海斗の存在により、男達の注意が逸れている。力も少し弱まっているようだった。逃げるなら今しかなかった。




