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第20話 第三章 ―イヴ― 7

 休憩室に入るとタバコのヤニ臭さが鼻を覆う。新鮮な空気を探してもどこにも見当たらなかった。そこで松影隆一と思われる用務員のおじさんは、こちらに背を向けながら右手の指にタバコをつまんでいる。小さなテレビには、ニュースなどとは全く関係の無い平和な世界が映し出されていた。『吉祥寺に豪邸を構えるセレブ奥さんの一日の生活』。ひなたはそんなものには興味無い様子で、ヨーコ先生を従えて松影隆一に歩み寄った。

「初めまして。松影さんですか?」

「ああん?」

 名前を呼ばれた灰色の作業服の松影は、何か不機嫌そうに釣り目を向けてきた。足は偉そうに組んでいる。

「……どうも」

 ヨーコ先生も敵意剥き出しの目で、ひなたの後ろに構えていた。松影は先生の姿を見つけると、舌をなめずり回してきた。

「あんりゃまあヨーコ先生、今日も綺麗だねえ。えへへへへ」

――キモッ。

「ありがとうございます。社交辞令として受け取っておきますわ」

 ヨーコ先生は眉をピクつかせており、今すぐにでも右手に持った警棒で殴りかかりそうな勢いであった。

 松影の左手の一本一本の指が、まるで地形に沿って這いずり回る蛇のように空中で動き回った。ひなたはその動きを見て嫌悪感を覚えたのか、少々引いている様子だった。既にひなたの心の中には、『松影はイコール変態』の図式が見事に出来上がっている頃だろう。

「あ、あの、あたし、松影さんに聞きたい事があって来ました」

 表情を強張らせたまま、松影に向かって『何とか搾り出した』という表現が似合うほどに硬い声で話しかける。

「おやおや、こっちのお嬢ちゃんも可愛いこった。おじさん困っちまうな、モテてよ」

 ひなたとヨーコ先生は、松影の対面のソファに並んで腰をかけた。テーブルを真ん中に挟んであるため、すぐに手は出せない位置だ。話すなら確かにこのような場所がいいだろうと思えた。

「おいおい、女が二人もオレの前に並ぶなよ、どっちを選べばいいか迷っちまうぜ。どっちを選んでもどっちか不幸にしちまうけどな。かーっ、オレって罪なヤツ」

 冷やかすような松影の言葉を完全に無視し、ひなたは思い切った言葉を吐いた。

「単刀直入に聞きます。松影さんは昔、警察に逮捕されてますね。汚職事件で。その時取引に使った、杏条ニューロン株式会社の情報は、どんなものだったんですか」

 ヨーコ先生は膝を閉じ、頑なに見守っている。詳しい状況を知らない以上、口を出す事も出来ないだろう。だがひなたの身は守る為に、警棒はすぐに伸ばして護身に使えるように右手に持ったままだ。

「あー逮捕ね、そんな事もあったなぁ」

 伸びた前髪をかき上げる。フケのような白い粉が舞うのが不潔っぽかった。

「イイ金になったぜえ。一億二千万だ。ま、汚職がバレて全部なくなっちまったけどよ」

「そんなのは知ってます。当時の事件の事調べましたから。早く質問に答えてください。あたしの用はそれなんですから」

「おお、怖い怖い」

 松影は本気で話す気になったのか、テレビの電源を切り、リモコンを乱暴に投げ出した。一気に部屋の中が静寂に包まれる。灰皿にタバコを擦り付け、焦げ付く音もはっきりと聞こえるくらいに。

「だがな嬢ちゃんよ」

 松影の声色と目付きが変わった。鷹のような獲物を狙い定める鋭い眼差し、まるでヤクザをも思わせるドスの効いた重低音の含まれる声。だがひなたは怯まず、それを見返した。

「一億二千万円もの金で取引される物だぜ? 警察に逮捕され、真実が明るみになったにも関わらず、世間一般には真相はボカして報道されるような内容だぜ? な、世間知らずなお嬢ちゃんにだって、オレの言う事が何を意味してるか分かるだろう。つまり、『それだけヤバイ物だった』ってわけだ。警察の奴らがあの事件で何をマズイと思ったか。オレが越前屋と取引して汚職したのがマズかったわけじゃない。他に理由がある。そんなヤバイものが自分達の知らない所で進行してて、しかもそれは闇ルートで外国へと流れ、悪用されてゆく。それだけの価値があるものだから、オレみたいな下っ端がちょいと盗んだ情報だって高く付く。な、そういうわけだからこんなつまんねぇ話はとっとと忘れて、彼氏とどっかブラブラ遊んできな。ゲーセンでもデパートでもラブホでもよ」

 鼻で笑う松影。この様子を見ても、元々ロクな人間ではなかったのが伺えた。

「あなたって人は……」

 ヨーコ先生も何か『ヤバイ物』に触れそうだと気付いたらしく、表情が硬くなっていた。だがひなたは構わずに聞き返した。

「その事件が起きたのと、あたしのお母さんが失踪した時期がかなり近いの。もしかして、それと秘密があるの? だから話したくないの?」

 かなり強引な結び付け方だと思えるが、関連性が無いとは言い切れない。関係が無いなら無いで、松影はさっさと「無い」と言ってしまえば終わるのだから。だが彼はそれをしなかった。

「お母さんだと? そういえばお嬢ちゃん、お前の名前を聞いてなかったな。教えてみろ」

 松影は妙な所に食いついてきた。ソファにもたれかかり、偉そうにふんぞり返る。

「神崎陽詩」

 ひなたは迷わず答えた。

「神崎……かんざき……、カンザキ……」

 松影は苗字を一定感覚で口ずさむ。次第に口元が歪んでいった。

「そうかそうか、お前があの女の子供だったのか。ああ確かに、言われてみれば似てやがる。目といい、鼻といい、唇といい、ああ芸術品だよ。親子揃ってこんなに整った美術品みたいな顔した女達は初めて見たぜ。食ってやりてえなあ」

「何言ってるんですか。お母さんを知っているんですか?」

 松影はもったいぶったように指を振ると、気色悪く片目を瞑った。

「面白え、面白すぎるぜコンチクショウ。世代を越えて、美人親子がオレの前に参りました、ってか。よし、特別に話してやろう、ありがたく思えよ」

 機嫌が変わったらしい。

「どういう心変わりですか……」

 ヨーコ先生が突っ込む。どうやらひなたの母親を知っているらしい松影は、何か複雑な思いを抱いているようだった。

「だがな、これだけは言っておくぜ。これからする話は、本当の意味でヤバイ話だ。話した事で何かあっても、それは『話せ』と言ったお前らの責任であり、オレには何の責任も無い。ただオレは話すだけだ。オレはそれ以上何もしないし、これ以上あの事件に関連した事に首を突っ込むつもりは無い。いいな?」

 ひなたはゆっくりと頷く。それを見届けた松影は、再びポケットから新しいタバコを取り出し、火を点けた。口にくわえ、煙を吐き出し、落ち着いた所で彼は語り始めた。

「あれは、オレがまだ杏条ニューロンで働いていた時だ。たまたま東京本社に予定があって、箱根にある第一研究所から出張しに行った日の出来事だった」

 語り口が、まるでドラマの脚本でも読んでいるようだった。誰に対して喋っているわけでもなく、その脚本を読みながら覚えようと練習でもしているような。

「当時オレは、杏条ニューロンの営業部に所属していた。今でこそ作業服姿だが、スーツ姿をビシッと決めた、バリバリのエリート営業マンだったんだぜ」

「それは知りませんでしたわ」

 ヨーコ先生は相槌を打つ。濁った煙が部屋の中に充満し、換気をしたくて仕方ないらしく、ひなたはウズウズしている様子だった。だが今は話を聞くのが優先と判断したらしい。一歩も動かなかった。

「本社に行った時な、例の女と廊下ですれ違ったわけよ。白衣を着て、薬品の臭いの染み付いた美人だった。オレのようなタバコ臭い営業部の人間とは対極的だな。いかにも会社の研究者と思われるその女は、後で聞いたらどうやら普段は研究所勤めをしているらしいが、たまたまその日は本社に用があるとかで来てたらしい。オレと同じようにな」

「それが、神崎世良だったんですか?」

 ひなたは、何か核心に迫りつつある予感がしたらしく、いつになく女ながらに低い声で聞いた。

「そうだ。オレはあの女以上の美人には出会った事は無かった。何とも美しかったぜ、この世にこれほどまでの生きた芸術がいるのかとな。あれが日本人だってんだから、人間の素晴らしさを改めて実感したね。旦那と小さいガキが一人居るってついでに聞いたのがとてつもなく残念に思えた」

 松影は、目の前に座っているその『ガキ』に対して視線を向けた。間違いなく、その『ガキ』というのはひなたの事を指しているのだろう。ひなたは松影の視線から逃げるように目を逸らした。

「その頃のオレにはまだ良心の呵責ってのがあってよ、どんなに美しい女が目の前に現れたって、家族がいるとすればその幸せを壊しちゃいけねえって、そういう思いがあった。もし神崎世良が独身であったなら、もしかしたらオレは手を出していたかもしれねえなあ。だけど家族がいると知って、オレは見守る事にした」

 話を聞いていた二人は、てっきり手を出したのかと思ったらしく、意外な展開に顔をきょとんとさせていた。松影の話は続く。

「だがオレには良心もあったが、同時に野心もあった。それは女に対してではなく、仕事。世間に対してのオレの立場。経済面。誰だって幸せになれる権利がある。なれるかどうかは知らねえがな。当時のオレは、色んな人間とのやり取りや、どんなに頑張っても成果の出ない自分の仕事っぷりに疲れていたんだな。

 神崎世良の話を同僚から聞いてな、彼女は実はいわくつきの研究に着手してるって話を耳にした」

 ひなたの表情が変わった。欲した真実。母は誰にもそれを打ち明けず、忽然と姿を消してしまったのだ。

「杏条ニューロンは表向きは製薬会社だ。だがなあ、調べてみると裏ではとんでもねえ研究をしてやがったのさ。一般の労働者には耳にすら入らない、闇の研究だ。一部の人間の間で極秘に行われていやがった」

「それは、何だったんですか?」

 松影は一呼吸置き、もったいぶるように言った。

「クローンの研究だぜ」

 タバコを灰皿に擦り付ける。鉄の焦げ付く音が何故か気味悪く鼓膜に残ったように、ひなたは左手で耳の穴をいじった。

「クローン……ですか?」

 それならばひなたは良く知っていた。何も闇の研究ではない。今でこそ、杏条ニューロンは食肉用のクローン豚や牛の研究も携わっているのだ。その食肉は、ブランド精肉の業界を揺るがすほどの画期的な成果が望めるのではないかと世界中で期待されている。もし杏条ニューロンが、素晴らしく優秀な遺伝子を持った食肉用の家畜を大量生産する技術を開発したなら、それは世界中で莫大な利益を生み出す事になるだろうと思えた。

――あたし、杏条家にいるんだよ? 動物クローンの話なんて良く耳にするけど。だけどなんだろ、この嫌な感じ……。

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