第19話 第三章 ―イヴ― 6
ひなたは校舎エリアまでの並木道を一人で歩いた。雨の降りそうで降らない暗雲が、ひんやりとする北風を運んでくる。ボタンが外れて締まらないワイシャツの胸元がもどかしいらしく、ひなたは襟元からワイシャツを手で押さえながら歩いた。着替えが手に入るまでは我慢するしかない。
静まり返った学校というのも不気味なもので、広い敷地が逆に空恐ろしげに感じる。高い校舎の窓から何かが覗いてきているような、変な錯覚すら感じる。ひなたは次第に足早に職員室へと急いだ。人の居る所でないと安心が出来ないようだった。
――なんか声が聞こえる。
男達の威勢のいい声が聞こえてきた。後ろからだんだんと近づいてくる。ひなたは振り返ると、この寒空の中で薄い柔道着を着用してランニングをしている集団が近づいてきた。今日は土曜日。学校は既に今日から冬休み。クリスマスイヴだというのに、運動系の部活はそんなの関係ないらしい。
「えっほ、えっほ、えっほ」
いかにも男くさい掛け声で走ってくる。角刈りの頭と、ごつい岩のような顔と、ごんぶと眉が特徴的な、先頭を走っている柔道部の部長がひなたに気付く。
「もしや、神崎殿ではないか……?」
「そうですけど。こんにちは」
ひなたは二年生である部長にぺこりと頭を下げた。
「うおっす!」
部長がひなたの前で立ち止まってしまった。皆もその場で足踏みしながら気合の入った声で彼女に挨拶してくる。部長は顔を赤らめ、モジモジしながら言ってくる。
「わ、ワシはその、神崎殿」
「……え?」
こんな場所でいきなり何を突然言っているのか分からないが、何か伝えたいらしい。
「部長、ほら勇気を出して!」
後ろの部員が背中をぽんと叩いた。部長は更に赤面した顔で、タジタジになりながら思い切り言った。
「お主の事がその、文化祭の時から。だからその、今日ここで会えたのも何かの縁、練習が終わったらその……、でぇとに付き合ってはく」「ごめんなさい」
ひなたは言い終わらない内に返答する。部長を始め、皆は呆然としてその場に立ち止まった。
「あたし、時間が無いんです。世間では今日はクリスマスイヴですけど、あたしには遊んでる暇なんか一秒たりともありません。今日は無理です。明日も無理です」
「部長、この子……」
部員の一人が思い出したように言った。
「もしかして事件に巻き込まれてるんじゃ。俺、朝ニュースで見たぞ。ウチの学校の赤い髪の女生徒って、この子の事だろ」
「そうであったか。ならば仕方が無い。事情も知らぬ我々では、足手まといになろう。ワシは静かに神崎殿を応援する事にしようではないか」
部員の一人が近寄ってきて、ひなたの耳元で小さく言った。
「この部長、文化祭で君のファンになっちまってさぁ。好きでしょうがなかったんだってさ。部活中にボヤいてんだぜ。『あの歌声をもう一度生で聴きたいものだ』とか抜かして、聞いてるこっちが恥ずかしくなってくるっつーの」
「こ、こら。お前」
部長は更に真っ赤になっていた。当のアイドルを目の前に言われるのは恥ずかしいのだろう。お堅い感じの人間だが、純粋にファンになってくれるのは彼女にとっても嬉しいかもしれなかった。
「そういえば、一つ聞きたいんですけど。ランニング中に用務員のおじさんって見ませんでした?」
ひなたはついでに尋ねてみた。だが皆は首を横に振る。
「いや、見なかったな」
「あのオッサン、またどうせヨーコ先生口説いてんじゃねぇの?」
松影隆一、もとい用務員のおじさんは、『ヨーコ先生』と呼ばれて親しまれている、若くてスレンダー体型な美人国語教師にちょっかいを出すのが好きだと専らの噂である。
「ヨーコ先生、今日来てるんですか?」
部員の一人が答える。
「来てるよ。さっき渡り廊下歩いてる所見たぞ。休日出勤だなんて、ヨーコ先生も大変だよな。今は職員室にでもいるんじゃね」
恐らく職員室に行けばヨーコ先生もいるだろうと思えた。ヨーコ先生とひなたは普段から親しく、友達感覚のように話してくれる優しい先生だ。松影隆一の居場所も分かるだろう。
「わかりました、やっぱりこのまま職員室に行ってみる事にします」
ひなたは軽く挨拶すると、振り返って歩き出した。
「あっ……」
赤面していた部長が、名残惜しそうに声を発した。顔だけ振り返るひなた。
「も、もし良ければ、我が柔道部に入ってはみぬか。勿論、落ち着いてからで良いからな。女子の部員が少ないのだ。お主が入ってくれれば、は、華が出来て我が部も更に活気付くであろうしな」
ひなたはニコっと微笑んで返した。
「柔道もいいですね。平和になったら、始めてみるのもいいかも。ちょっと考えてみますね」
部長は岩っぽいゴツゴツした顔をデレっとさせてひなたを見送った。幸せそうな笑みであるのが誰から見ても一目瞭然だった。
職員室に入ると、もわっとした暖房の温もりが全身を包んだ。複数の石油ストーブが全力で、少ない人数しかいない広い職員室を明らかにやりすぎなほどに暖めていた。室温は三十度近くあるのではないだろうか。暑いのが大好きで、サウナを出た直後に激辛カレーライスを食べられるこの学校の校長さえ、目を回してぶっ倒れそうな蜃気楼のようなうだる暑さが感じられた。ひなたは着ている制服をパタパタと仰ぎながら、熱を逃がした。
――なにこれ、真夏じゃないんだから……。
職員室の真ん中辺りの机で、黒いスーツ姿の茶髪の女性が背中を見せて座っているのが見えた。とてつもない集中力で、首から上を全く動かさずに休み無しにキーボードを両手で叩いて音を立てている。傍らには若い女性らしく、愛くるしい三毛猫の顔の描かれたマグカップが置かれているのが見えた。
――いた、ヨーコ先生。
他にも先生は数名職員室内に居たが、いずれも関わりの少ない先生ばかりであったので、ひなたは迷わずヨーコ先生に近づいていった。
「ヨーコ先生、こんにちは」
すぐ隣で呼ばれたヨーコ先生は、集中していた手を止めて顔を向けてきた。
「あら、ひなちゃんじゃない! こんな所に居て大丈夫なの?」
「はい、ちょっとこの学校の人に用事があって来たんです」
五本足のオフィスチェアを回してひなたに向き直り、組んでいた艶やかな両足を解すヨーコ先生。丸みを帯びてふんわりとしたイメージのミディアムヘアは活発なイメージを想像させるが、実際は落ち着いていてとても生徒の事を親身になって考えてくれる女性教師だった。
「テレビのニュース、大変な事になってるわよ。しーさいど桜ヶ崎に突っ込もうとしてるひなちゃんがこれでもかってくらい、ふんだんに映し出されてたんだから。あれじゃあ、女子高生とか制服好きの一部の人種にはたまらないお宝映像だったと思うわよォ」
「ほっといてください!」
ひなたは赤面し、唇を噛んだ。
イジくるようにニヤニヤと笑いをこぼすヨーコ先生。だがひなたの人生相談も受けた事があり、過去の事情を知っているヨーコ先生は、少しでも楽な気持ちにさせようとしてふざけた言動を吐いたのかもしれない。
「で、ひなちゃんちょっとマズイ事に巻き込まれてるんでしょ。それに、さっきテレビに出てた教師って、国立先生よね。先生はどこにいるの? 大丈夫なの?」
「それが……」
ひなたは知っていた。国立とヨーコ先生は実は両想いな事を。互いに話を聞いている内に互いが互いを好きなのを、互いに知らないという事実を知ってしまったのだ。ヨーコ先生はがっしりとした頼りがいのある男性が好きらしく、国立が密かに気になっているらしい。恐らく、ひなたが事件に巻き込まれた事で、国立も巻き込まれたと確信しているようだった。心配なようだ。
「暴力を振るった事で指名手配されちゃって……。国立先生はなにも悪い事なんかしてないのに。恥もプライドも捨てて、あたしを助けてくれたんだよ」
「そう……」
ヨーコ先生は元気を失いかけたが、気丈に顔を上げた。
「それよりひなちゃん、一体なにをしに来たの? 」
早速本題を聞いてくるヨーコ先生。
「松影隆一っていう、この学校の用務員のおじさんを探してるんですけど」
「よよ、用務員のおじさあん?」
動揺したようにヨーコ先生は椅子を少々引いた。
「ダメよ、あんな変人になんか関わらない方がいいわ。ひなちゃん可愛いから何されるか分かんないわよ」
用務員のおじさん、もとい松影隆一に直接会った事は無かったひなた。教師の間で変人扱いされている事は知らなかったようだった。
「それでも、会って聞きたい事があるんです」
だが実際会ってみて本当に変人で、まともな人間の会話が通じるかどうかもアヤシイお猿さんだったりしたら、お手上げかもしれなかった。今は、松影隆一の持っているであろう情報がかなり重要であり、それが外れであれば可能性がまた一つ潰れてしまう。
「うーん、アタシもあの人には散々付け回されてるのよねえ。若い女が大好きみたいで。もし会いに行くなら、ひなちゃんに変な事しないようにアタシも付いて行くわよ。あの人は今、すぐ隣の休憩室にいると思うから」
ヨーコ先生が指差した先にある、職員用の休憩室。一度も入った事は無い。というか生徒が入る機会などほぼ無い。中にあるのはタバコの灰皿とテレビ、小さな冷蔵庫くらいだという。お昼休みになると、ヘビースモーカーな先生はあそこにずっと篭ってモクモクしている。
「それでいいです。もしかしたらとんでもない話が飛び出すかもしれませんけど」
「いいわよ、ひなちゃんよりもとんでもない生き方してる人なんて、あんまりいないんだから」
ヨーコ先生は机の引き出しを開けると、鋼の細いスティックの取っ手のような物が出てきた。先生はそれを右手でつかみ取り、立ち上がった。
「何ですか、それ」
ヨーコ先生はさらりと返した。
「特殊警棒よ。護身用」
「そこまでおかしな人なんですね……」
先生の徹底振りに少々呆れながらも、ひなたは休憩室へと向かった。




