第9話 第二章 ―迷走― 5
バイクに乗せてもらった事は少なくはないが、彼女は一向に慣れなかった。スピードがあまりに出るのが怖いのだ。車なら鉄の箱に体が守られているから、万が一事故などに遭ったとしても無事である確率は高い。だがバイクの場合はそうはいかないし、下手すれば気付いたらあの世、なんて事もあるかもしれない。海斗はなるべく気遣ってスピードを上げないようにはしているようだったが、出す時は出す。その度に彼女は振り落とされまいと必死になってしがみ付くのだった。それが、今まさにその時であった。
「速い、速いよ! 怖い怖い怖い!」
後ろで喚くひなた。周りの景色は瞬きすると次の瞬間には別のものに変わっている。彼女にとっては十分に速すぎる速度であった。
「たったの四十キロなんだけどな……」
海斗は苦笑し、エンジンブレーキでスピードを落とした。やっと彼女の声は収まった。だが再び大げさな声を上げて彼女は言った。
「車の四十キロとバイクの四十キロは違うの! すんごく速く感じて怖いよ」
「確かに車だとゆっくり感じるけどね」
乗っている物によって速度の感じ方が変わる事は良くある。風の流れや抵抗などが生で感じられるバイクは、慣れないと速く感じるのだろう。
「あぁ、将来は大型二輪取って、ハレーイで高速突っ走りたいなあ」
と、誰に言うでもなく海斗は独り言を呟いていた。ハレーイといえば、大型バイクのブランド中のブランド。今は十六歳で中型までしか持てないため、彼は繋ぎとしてこのバイクに乗ると考えているようだった。
「あたしも、バイク慣れたいなあ……。でも怖いんだよね」
「じゃ、ハレーイ買うまでに慣れさせてあげるよ」
左手の指二本で後ろのひなたにアピールする海斗。本気で言っているのか、違う意味があるのかは分からなかったが、ひなたはその言葉だけでも嬉しかったようだ。
「お願いします、お師匠さん」
「任せなって」
彼の運転は、一緒に乗っている相手の気持ちを考えている運転だった。とても丁寧な安全確認もするし、無意味にスピードは出さない。危なそうな黄色信号は確実に停まった。そういう意味でも、彼女は彼の運転を信頼しているようだった。
バイクの話をしている内に、海斗は一つの高級マンションの前でバイクを停めた。どうやら、問題のご住まいに到着らしい。
「なにこれ、すっごいマンション……」
「僕も最初はそう思ったよ」
地上二十階ほどあるのではないかと思われる高層マンションであり、外壁には大理石のような、蹴っただけで弁償でもさせられそうな高価そうな石が使われている。それが建物一面に。ガラス張りの観音開きの扉は金の縁で出来ており、閉まっていた。中にはテレビの付いた管理人室が見える。どうやら中にもう一枚扉があり、例の如く入るには確認が必要になりそうだった。防犯もぬかりない。しーさいど臨海公園から少々離れたこの住宅街は、徒歩で十分も歩けばすぐ浜辺に出る場所だ。潮の香りもする。
「……あの会社、実際立派なのはこの社長宅だけだよ」
何か悪態を付くような声を吐き捨て、海斗は邪魔にならなそうな場所にバイクを停めた。
「贅沢三昧してた社長さん、ってわけなんだね」
「そういう事さ」
決して儲かっていた会社なわけではなかったらしい。それでも社長はどうやら、自分だけは豪華な生活を送っていたようである。会社の規模がおよそどれくらいなのかは、あの小さな事務所を見ればだいたい分かった気はした。間違っても、こんな明らかな高級マンションを気軽に買えるような利益は出ていないだろう。
「朝ごはんに江戸前寿司を食べて、昼食にはシェフの作る本格イタリアン、夕飯は毎日、一本二万円のお気に入りのワインと、フレンチ。これが、話に聞く小田原社長のある一日の食事メニューだよ。 どう? 小さなボロ建設会社を運営している、社長の食事とは思えないだろう? その上、自分は贅沢三昧のくせに社員には薄給だったっていうしね」
どうやら小田原社長の噂は良くないものの方が多かったようである。話で聞いているだけでも相当イメージの悪い人間だ。
「薄給って……だいたい月何万くらいだったのかな」
「妻、学生の子供三人持ちの四十歳男性。そのある社員の給料は月に三十万ちょいだったってさ。僕なら、その豚社長の顔に泥水でもぶっかけた後に、安全靴履いた足で股間に蹴りでも入れて、辞表叩き付けてやりたくなるね」
ひなたは呆れた顔で、流し目をしていた。
「……社員からも相当恨まれてたのかもね、それ」
海斗もそれに同意したようで、頷きながら続けた。
「その年齢になっちゃうと、辞めたとしても再就職先を探すのが難しいからなあ。厳しい賃金でも働かなきゃならない人もいるよ」
二人はマンション入り口まで歩いてくると、管理人室を無視して小田原社長宅のインターホンを鳴らした。中から許可が出なければ入り口のロックは開かない。
「さぁ、中身は居るかな」
中身というのは、社長宅の中身という事だろう。
「居そうな気がするよ」
ひなたは呟いた直後、インターホンから女性の声が聞こえた。
「どなたでしょうか」
ひなたは黙り、海斗に任せる事にした。
「日立海斗と申します。ちょっと話を聞きに来ました」
「日立さん? すいません、どなたでしょうか」
女性の声はけっこう年配な雰囲気で、大人しいおばさんといった感じがした。
海斗は突然、荒々しく苛々した声で言った。
「あんたの所の小田原社長の知り合いの、日立議員の息子、とでも言わなきゃ分からないわけ? 小田原の狸社長が俺の親父にどんだけ貸しがあるか、忘れたとは言わせないぞ」
柱に手を付き、貧乏ゆすりをしながら歯軋りをする海斗。どうやら彼は個人的にも小田原社長を嫌っていたようだった。
「ちょ、ちょっと海斗君……」
ひなたも、ここまで声を荒げる海斗をあまり見た事は無いようだった。普段は大人しく、誰に対してもそつなく優しい言葉を掛ける男なのだ。それほど、この小田原という人物に個人的な恨みでもあるのかもしれない。
「あ、あぁごめん……。あの狸の事思い出したら、つい」
海斗は振り返ると、頭を掻いて苦笑いをしていた。どうやら個人的な感情らしい。
しばらく押し黙っていた向こうの女性は、次に声色を変えて答えてきた。
「……日立海斗さんですね、どうぞ上がってください」
海斗が誰なのか理解できたらしい。女性の声色は、何か訝しげな様子に思えた。
「さ、行こうか」
海斗は眉をしかめたまま、エレベータに向かっていった。ひなたも戸惑いながら、追いかける。 透明な強化ガラスに包まれた高速エレベータが上昇してゆく。見る見る内に眼下に広がる、しーさいど臨海公園。歩いている人々が豆粒のように小さくなり、黒い点へと変わってゆく。階層は五階、十階、とどんどん登ってゆき、遂には地上十八階で停止した。既に眼下に広がる景色は、ガラスに守られていなければたちまち落下して吸い込まれてしまいそうなほどの恐ろしい高さであった。
「すごい所に住んでるんだ……」
「覚悟はいい? 神崎」
エレベータの中で、海斗は終始無言だった。恐らく、これから社長の奥さんと直に対面し、『お話』をする事に少なからず緊張しているのだろうと思われた。
ひなたが頷くのも確認せずに、緑の絨毯張りの廊下に歩み出る。この階には問題の社長の部屋一室しか無いらしく、全く迷いもせずに一本道を歩いて部屋の前までやってきた。
海斗は一旦深呼吸すると、荒々しくドアを数回拳で殴った。その乱暴さに、ひなたは少し唖然とする。
「大丈夫? 海斗君、なんか変だよ……」
「あ、あぁ、また癖が……」
と、ドアがゆっくりと開かれた。中からは、貴金属を頭から足の先まで程良いバランスにたっぷりと散りばめ、成金という第一印象が似合うおばさんが現れた。
「どうも……」
おばさんは一言そう発する。何だか疲れきっている表情だ。おばさんの見た目は、貴金属を大量に身に着けているよりも、スーパーの安売りで買い物カゴ片手に火花を散らしている姿の方がお似合いであった。第一印象が成金なら、第二印象はアンパンの中央にどっしりと乗っかった団子鼻、辛そうな色合いのタラコ唇の付いた顔といった具合か。深く刻まれた皺が、見ようによっては中華饅頭のようにも思えてくるから不思議だ。
「やぁこんにちは。あんたの旦那の友達の息子だよ。ちょっと話を聞きたくて、お邪魔しに来ました」
「すぐには全額は返せませんよ……、どうか今日はお引き取りください。お願いします」
おばさんは弱々しく、礼儀の感じられない浅いお辞儀をした。どうやら旦那さんである社長が死んだ以外の理由でも疲れているように見えた。それに、酷く海斗の事を恐れているような。
「あぁ、ウチから借りたお金の事は今日はいいんだ。返す気があるんだったら、さっさとその指に付けてる指輪とかネックレスとか叩き売ってくれればいいし」
「では、どういう事なのでしょうか」
海斗は答えず勝手に玄関の中に入り、靴を脱ぎ始めた。
「神崎も入りなよ。遠慮は要らないよ」
「え。い、いいの……?」
図々しく勝手に小田原家の中に入ってゆく海斗。ひなたはおばさんの目の前で、タジタジになった。
「ええ、どうぞ。日立さんの彼女さん」
するとおばさんは、ひなたの立場を察して自分から招き入れてくれた。決して、歓迎された客ではないはずだが。彼女ではなく、友達であったが、ひなたは別段そこは気にしていない様子だった。
「お、お邪魔します」
海斗は既に部屋の中に進み行っていて、その言葉は聞こえていないようだった。
部屋の中に入ると、壁一面のガラス窓からミニチュア模型のような地上の景色が広がっていた。贅沢三昧して、ここから地上を這って暮らす人間達を見下ろす生活をしていたのかと、ひなたには何か黒い感情が込み上げてくる気がしたかもしれない。
海斗は入ってすぐの居間にあった、白い革張りのソファに勝手に腰を下ろしていた。ひなたが姿を見せると、海斗は手招きする。まるで自分の家のようだ。
「なんか、あたし場違いかも……」
「うーん、僕の中では神崎は西洋物のが似合うと思うんだけどな」
ひなたはおろおろしながら、こんな豪華な場は自分には合わないといった様子で落ち着かなかった。しきりに頬を掻く手が心情を物語っている。
ひなたの住んでいる杏条邸は豪邸ではあるが、昔ながらの日本家屋の建築様式で趣がある。それに造りがどこか庶民的な部分を残してあるために、ひなたはここまで動揺はしない。西洋建築の雰囲気が彼女は苦手なようであった。
おばさんは二人のために紅茶と有り合わせの茶菓子を急いで用意すると、金縁のティーカップに汲んで持ってきた。




