第9章「ヴィラの死角」
薄氷の上では、足の置き場を一つずつ確かめて進むしかない。
澪は屋敷の構造を改めて頭の中で組み直した。カメラの位置。録音の死角。スタッフの動線。二十四時間の監視の中にも、わずかな隙間はある。給湯室の裏。物置の影。プールの濾過装置がうなる三十秒。その隙間を縫って、彼女は一つの仕掛けを作った。
デッド・ドロップだ。
直接会わずに、物や情報を受け渡す方法を、業界ではそう呼ぶ。あらかじめ決めた隠し場所に片方が置く。もう片方が別の時間に回収する。互いに顔を合わせないから、誰にも関係を見られない。隠し場所は、庭の石垣の、ぐらついた一つの石の裏だった。澪はそこに、防水した小さな紙片を仕込めるようにした。
問題は外との連絡だった。
島の外にいる協力者とどうやって受け渡すか。番組には週に一度本土から物資が届く。食材や日用品を運ぶ船だ。その積荷に機関の手が一つ紛れていた。澪は花の合図で受け渡しの可否を伝え、物資の隙間に紙片を滑り込ませる。誰も、花を活ける女と、本土から届く小麦粉の袋を、結びつけて考えない。
仕掛けは滑らかに動きはじめた。
澪は鵜飼を観察し続けた。彼の習慣彼の死角彼が誰と何を話すか。標的に近づくほど、彼が「ただの参加者ではない」確信は強まった。鵜飼もまた、デッド・ドロップに似た動きをしていた。物置の棚の特定の缶。彼はそこに時折何かを触れていた。
澪はその缶を確かめた。
中には折りたたんだ紙が一枚。暗号でも符牒でもない。ただの名前と数字の羅列だった。澪は記憶した。元に戻し痕跡を消した。
名前を彼女は知らなかった。資料にもなかった。
数字は口座か座標か日付か。判別がつかない。
澪は、その缶を、元あった場所に、寸分たがわず戻した。
位置。角度。埃の払われ方。すべてを触れる前の状態に復元する。痕跡を残せば、鵜飼は、誰かが缶に触れたと気づく。気づけば警戒する。警戒されれば二度と尻尾を出さない。彼女は息を殺して棚を離れた。物置の扉を音もなく閉める。廊下に人影はなかった。心臓だけが速かった。
ただ一つ確かなことがあった。鵜飼は誰かと連絡を取り合っている。この島の外の誰かと。澪の任務と彼の動きはどこかで交差している。盤面にもう一人見えないプレイヤーがいる。
石垣のデッド・ドロップで、一度、肝を冷やすことがあった。
澪が、ぐらついた石の裏に紙片を仕込もうとしたとき、背後で、足音がした。彼女は、動作を止めず、しゃがんだまま、靴紐を結ぶふりに切り替えた。心臓が跳ねた。だが手は震えなかった。訓練が震えを許さなかった。
近づいてきたのは参加者のひとりだった。散歩中のただの男だった。こんなところで何を、と聞かれ、澪は、貝殻を探していたんです、と微笑んだ。男は笑って通り過ぎた。
彼女は、男の背中が見えなくなるまで待ち、それから、紙片を、石の裏へ滑り込ませた。何でもない数十秒。だがその数十秒にひとつの命がかかっている。澪はそのことを骨身に染みて知っていた。
澪は鵜飼の動きを丸一日追った。
彼は、午後、ひとりで、物資倉庫のほうへ歩いていった。澪は距離を取り東屋の影から見ていた。
倉庫の前で、鵜飼は、すれ違った配膳係に、ほんの一瞬、肩をふれた。それだけだった。だが澪は見逃さなかった。手のひらから手のひらへ何かが渡った。すれ違いざまの受け渡し。前世で言うブラシ・パスだ。
配膳係は何食わぬ顔で立ち去った。鵜飼も何事もなかったように歩いていく。
澪の背筋が冷えた。鵜飼はこの島の外とつながっている。配膳係はその中継役だ。盤面に自分の知らない糸が何本も走っていた。
その夜、澪は告白部屋でその名前を符牒に変えて流した。外の協力者へ。これが何者か洗ってくれと。
澪はその夜も石垣のそばに立った。
ぐらついた一つの石。その裏がデッド・ドロップだった。彼女は靴紐を結び直すふりをしてしゃがんだ。指先が、石の裏の空洞を探り、仕込んだ紙片の有無を確かめる。回収は済んでいた。外の協力者が、物資の船に紛れて、応答を残していた。
動作はほんの数秒だった。誰の目にも靴紐を直す女にしか見えない。この数秒のために、彼女は一日がかりで、監視の死角を測ってきた。地味で退屈で神経をすり減らす作業。映画の中のスパイがやらない、本物の仕事だった。
部屋を出ると廊下に七瀬がいた。
彼は壁にもたれて夜空を見ていた。窓の外で星がやけに多かった。本土では見えない数の星だった。
「眠れないんですか」
澪が聞くと七瀬は笑った。
「澪さんこそ」
「ちょっと、考えごとを」
「考えごとか」
七瀬は、それ以上聞かなかった。聞かないことが彼の優しさだった。
ふたりはしばらく並んで星を見た。会話はなかった。澪にとって沈黙は仕事の道具だった。けれどこの沈黙は道具ではなかった。ただ心地よかった。それが彼女を不安にさせた。
星空の下でふたりは長いあいだ黙っていた。
澪にとって沈黙は武器だった。相手に沈黙を恐れさせ、その重さに耐えかねて口を滑らせるのを、待つ。それが彼女のやり方だった。だが七瀬の隣の沈黙は武器ではなかった。何も探っていない。何も待っていない。ただふたりで同じ星を見ていた。それだけの時間だった。
澪はその時間の心地よさに戸惑った。心地よさは油断だ。油断は任務の敵だ。彼女は何度も自分にそう言い聞かせた。言い聞かせるほど隣の体温が近く感じられた。
七瀬は何も聞かなかった。考えごとですか、とだけ言って、あとは、ただ星を見ていた。聞かないことが彼の優しさだった。澪は、その優しさにどう応えればいいか、わからなかった。応えるという発想自体が彼女の中になかった。
部屋に戻り、澪は記憶した名前を、もう一度なぞった。
知らない名前。けれどなぜか胸の奥がざわついた。
その理由を彼女はまだ知らない。




