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スパイが恋愛リアリティショーに参加する物語  作者: もしものべりすと


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第8章「影響力の武器」

動揺は仕事で塗りつぶす。それが澪の流儀だった。


 動揺は仕事の量で押し流せる。彼女は経験でそれを知っていた。


 考える隙を自分に与えない。手を動かし盤面を動かし誰かを動かす。そうしている間だけ七瀬の声は遠ざかった。まばたきが止まると言われた、あの夜の感触も、薄れていった。


 彼女は自分の有能さにすがるように没頭した。有能でいるかぎり、自分が空っぽであることを、感じずにすんだ。


 翌週、彼女は本格的に屋敷の力学を握りにかかった。任務を進めるには、参加者全体を自分の思う方向へ流す必要がある。十二人の感情と関係を、一枚の盤面として読み、駒を動かす。これは彼女の本領だった。


 まず使ったのは社会的証明だ。


 人はみんなが良いと言うものを良いと思う。誰が誰を気にしているかという噂を、澪はさりげなく撒いた。「鵜飼さん桐谷さんのこと気にしてるみたい」。事実かどうかは関係ない。そう聞けば桐谷は鵜飼を意識する。意識すれば態度に出る。態度に出れば噂が現実になる。澪は、ありもしない流れを言葉だけで作り、そこに本物の感情を流し込んだ。


 次に権威を借りた。


 彼女は美術や心理の知識を、ほんの少しだけ会話に混ぜた。人は何かに詳しい相手の言葉を信じやすい。澪が「人は不安なとき、無意識に首元に触れるんですよ」と言えば、参加者たちは彼女を、人の心を見抜ける女として扱いはじめた。見抜ける女と思われれば相談が集まる。相談が集まれば、全員の秘密が彼女のもとに流れてくる。


 告白部屋はその宝庫だった。


 唯一カメラしかいない密室で、参加者は本音を吐く。澪はそこで語る独白を、二つの層に分けて設計した。表向きは恋に揺れる女の正直な気持ち。その裏に、外の協力者だけが読み取れる符牒を仕込む。誰にも怪しまれずに報告を流す。告白部屋は、彼女にとって最高の通信室になった。


 ある夜澪は告白部屋に入った。


 赤いランプが灯る。壁の黒いレンズに向かって、彼女は、恋に揺れる女の顔で語りはじめた。鵜飼さんのこと最近よく考えてしまうんです。あの静かなところが気になって。


 言葉は二重になっていた。表向きは初心な参加者の告白。その裏で、ある単語の選び方、ある間の取り方が、外の協力者だけに読める符牒を編んでいた。鵜飼の缶。その中身。洗ってほしいと。


 澪はレンズに向かってはにかんでみせた。誰にも怪しまれなかった。この島で、自分がいちばん正直になれる場所が、嘘を流すための部屋だというのは、つくづく皮肉だった。


 数日のうちに、屋敷は澪の手のひらの上で回りはじめた。


 誰と誰がくっつき誰が誰を妬むか。すべて彼女の描いた地図の通りに動いた。鵜飼との距離も計算通り縮まっていく。彼は警戒を解かない。だが解かないこと自体が、ふたりの間に特別な緊張を生み、カメラはそれを「惹かれ合うふたり」として映した。完璧なカバーだった。


 澪は、自分が有能であることを、改めて確認していた。


 そして、有能である自分に、わずかな虚しさを覚えていた。


 権威という武器も澪は巧みに使った。


 人は何かに詳しい相手の言葉を信じやすい。だから彼女は、会話の端々に、心理や仕草の知識を、さりげなく混ぜた。人は嘘をつくとき、無意識に口元へ手をやるんですよ。そう囁けば、参加者たちは、彼女を、人の心を見抜ける女として扱いはじめた。


 見抜ける女と思われれば相談が集まる。相談が集まれば秘密が集まる。


 数日のうちに、澪のもとには、屋敷じゅうの本音が、流れ込むようになっていた。誰が誰を好きで誰が誰を疎んでいるか。すべてが彼女の手のひらの上に並んでいた。


 その虚しさを彼女はまた仕事で塗りつぶした。


 ある日のチャレンジは、目隠しでの「信頼の課題」だった。


 ひとりが目隠しをし、もうひとりの声だけを頼りに、障害物の並ぶ庭を歩く。番組はそれを心をひらく練習と呼んだ。くじで澪の相手は七瀬になった。


 目隠しをしたのは澪のほうだった。


 視界を奪われるとほかの感覚が鋭くなる。足裏の芝の感触。潮の匂い。そして前を行く七瀬の声。


 右に石があります。ゆっくり。そこ段差。彼の声は急かさなかった。澪の歩幅に辛抱強く合わせてくれた。


 澪は、人の誘導を信じて歩くことが、これほど難しいとは思わなかった。彼女はいつも自分の目で確かめてきた。誰も信じずに生きてきた。


 なのに今、見えないまま、ひとりの男の声だけを頼りに、足を、前に出している。


 ゴールで、目隠しを外すと、七瀬が、ほっとした顔で笑っていた。


 怖くなかったですかと彼は聞いた。


 澪は答えられなかった。怖くなかった。それがいちばん怖かった。


 ある日参加者の間で小さな諍いが起きた。


 よく笑う男と、沈黙に強い女が、ささいなことで険悪になった。場の空気がぴりついた。澪はそこへそっと入っていった。両者の言い分を、別々に聞き、それぞれに、相手が本当はどう思っているかを、こう囁いた。あの人本当はあなたに悪いと思ってるみたい。


 半分は嘘だった。だがその嘘はふたりを和解させた。


 翌日にはふたりとも澪に感謝していた。澪さんがいてくれてよかったと。彼女は微笑んで受け流した。人の諍いを収めるたびに、その人の弱みと信頼が、彼女のもとに、少しずつ積もっていく。優しさの顔をした収集だった。澪はそれが自分の得意技だと知っていた。得意であることが少しだけ嫌だった。


 ある夜、プールサイドでひとり夜風に当たっていると、桐谷涼香が隣に腰を下ろした。


「お疲れ」


 桐谷はグラスを揺らしながら言った。氷が涼しい音を立てた。


「あなたすごいね。みんな、あなたの手のひらの上で踊ってる」


 澪は微笑を崩さなかった。


「踊ってるのは、私も同じですよ」


「どうかな」


 桐谷は、澪の横顔をじっと見た。値踏みの目だった。澪は、この女が他の参加者とは違う種類の目を持っていることを、初日から知っていた。場を読み計算し自分の見せ方を制御する目。芸能か、それに近い世界で生きてきた人間の目だ。


「ねえ」


 桐谷は声を落とした。カメラに拾われない音量に正確に。


「あなた、本当は誰なの」


 澪の指先が、グラスの上で止まった。


 まばたきは止めなかった。それだけは訓練が間に合った。


「どういう意味です?」


 澪は首をかしげてみせた。完璧に無邪気に。


 桐谷はふっと笑った。答えを期待していない笑いだった。


「ううん。なんでもない。ただね」


 彼女は立ち上がり去り際に言った。


「ここにいる人みんな何かを隠して来てる。私もね。でも、あなたの隠し方は、素人のそれじゃない」


 桐谷の背中が、屋敷の灯りに溶けて消えた。


 桐谷の言葉が夜気の中に残っていた。あなたの隠し方は素人のそれじゃない。


 澪は背筋に冷たいものを感じた。鵜飼に読まれているのは覚悟していた。同業者だ。互いに正体を探り合うのは仕事のうちだった。だが桐谷は違う。彼女は、この盤面の外側にいるはずの人間だった。その外側の人間にまで、自分の偽装が透けて見えている。それは想定外だった。


 気配を消すことに、これほど長けた自分が、この島では、こんなにも見られている。光の中では影を作れない。彼女はその単純な事実を、皮膚で思い知らされていた。


 澪はプールの水面を見つめた。割れた光がゆらゆらと揺れていた。


 盤面を支配していたつもりが、自分もまた、誰かに読まれていた。鵜飼に。そして桐谷に。


 この島には見抜く目が多すぎる。


 彼女は初めて、足元が薄い氷であることを意識した。

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