第7章「引き出すものがない男」
その夜の出来事を、七瀬結のほうから語れば、まったく違う色になる。
七瀬結という男には、人を疑うという回路が、もともと備わっていなかった。
疑わないから騙されることを恐れない。恐れないから誰の前でも同じ顔でいられた。多くの者はそれを鈍さだと笑うだろう。だが澪にはそれがある種の強さに見えた。
武装した相手とはいくらでも戦える。計算には計算で嘘には嘘で応じればいい。だが、武器を持たない人間の前では、自分の武装だけが、ひどく重く、滑稽に思えてくる。七瀬の前に立つたびに、澪は、自分が抱え込んだ刃物の重さを、いやでも意識させられた。
彼は深い意味で言ったのではなかった。澪のまばたきが止まったのは、ただ見えただけだ。パンの発酵を待つ間、人の顔をよく見る癖がついていた。生地は急かすと膨らまない。じっと待つ。待つうちに、いろんなものが見えるようになった。人の顔もそのうちの一つだった。
澪さんはきれいに笑う。でもきれいに笑うときほど目の奥が動かない。
七瀬はそれを責めるつもりもなく見ていた。
翌日澪は手を打ってきた。七瀬は気づかなかったがそれは反撃だった。
澪は朝のキッチンに現れ昨日のことを謝った。
「変なこと言われてついぼうっとしちゃって。嘘なんてついてないですよ」
優しく、自然に、昨夜の指摘を「気のせい」へと書き換える。記憶を上塗りする手口だ。人は、自信なさげに告げられた自分の観察を、簡単に疑いはじめる。揺さぶれば、たいていの人間は「自分の勘違いだったかも」と引き下がる。
七瀬は首をかしげた。
「いや嘘ついてましたよ。べつに、悪いことじゃないと思いますけど」
引き下がらなかった。
澪の上塗りはつるりと滑り落ちた。七瀬は自分が見たものを疑わない。疑う理由を持たない。彼の中には、人を欺こうとする回路がないから、人に欺かれる前提もない。だから揺さぶりが効かない。
澪は方針を変えた。今度はエリシテーションだ。
彼女は七瀬の身の上を、それとなく探りはじめた。出身は。家族は。なぜパン職人に。誰にも気づかれずに相手の人生を地図にする。標的にするなら弱点を知らねばならない。弱点はたいてい過去の傷の中にある。
七瀬の側からすれば、それは、ただの世間話だった。
澪さんが自分の昔のことを聞いてくる。彼は、隠すことなど何もないから、思い出すまま答えた。実家のパン屋。早くに死んだ父。店をたたんだ日のこと。
話しながら彼はふと思った。澪さんは聞き上手だなと。相づちの打ち方がうまい。こちらが話しやすいように間を空けてくれる。
でもと七瀬は思った。澪さん自身のことはちっとも話してくれない。
ところが七瀬は隠さなかった。
「実家小さなパン屋で。親父が早くに死んで店たたんで。そのあと、自分には向いてないって言い聞かせて、何年か別の仕事してました」
彼は、訊かれたことに、訊かれたぶんだけ、正直に答えた。引き出すまでもなかった。弱点も傷も最初から机の上に出ていた。隠していないものは暴けない。
澪のエリシテーションは空を切った。
それどころか、七瀬のほうが、ぽつりと聞き返してきた。
「澪さんは、なんで花なんですか」
澪は用意してあった答えを口にしようとした。架空の物語を。
だが七瀬は続けてこう言った。
「いや、レジュメに書いてあるような話じゃなくて。澪さんが、花のどこが好きなのか、聞きたくて」
言葉が、喉でつかえた。
彼女は、花のどこが好きなのか、考えたことがなかった。花は道具だった。合図の道具。任務のために学んだ技術。好きも嫌いもない。そう答えれば嘘になる。本当のことを言えば自分が空っぽだとばれる。
澪はどちらも言えなかった。
沈黙が落ちた。七瀬は急かさなかった。生地を待つときの目で彼女の言葉を待った。膨らむまでただ待つ目だった。
その静けさが澪には耐えがたかった。彼女は沈黙を支配する側の人間だった。相手に沈黙を恐れさせ、口を滑らせるのが仕事だった。なのに今自分が沈黙に追い詰められている。
「……枯れるところが、好きなのかも」
気づけば、そう漏らしていた。
台本にない言葉だった。どこから出てきたのか、自分でもわからなかった。
「枯れる花って嘘がないんです。咲いてるときはみんな同じふりができる。でも、枯れ方には、その花が本当はどう生きてたかが出る」
言ってしまってから、澪はうろたえた。これは朝倉澪の言葉ではない。自分の言葉だ。仮面の下から本物が一滴こぼれた。
七瀬はゆっくりうなずいた。
「いいですねそれ」
彼は笑った。心の底から嬉しそうに。
澪はその笑顔から目をそらせなかった。
枯れる花が好きだと言ってしまってから、澪は、自分の失態に気づいた。
それは朝倉澪の言葉ではなかった。台本のどこにもない言葉だった。名前のない、彼女自身の中から、勝手にこぼれ落ちた一滴だった。仮面の継ぎ目から本物が漏れた。何百人もの前で、決して漏らさなかったものが、この男の前でだけ、こぼれた。
澪は必死に頭を働かせた。今のをどう塗り消すか。どうただの花屋の戯言に戻すか。だが七瀬は、いいですね、と言って、心の底から笑っていた。塗り消す隙を彼の笑顔が奪っていた。
彼女はその笑顔を、見ていることしかできなかった。
七瀬のほうは、その朝のことを、こんなふうに覚えている。
澪さんは枯れる花が好きだと言った。言ったあとでひどくうろたえた顔をした。なにか、言ってはいけないことを言ってしまった、というふうに。七瀬にはそれが不思議だった。あんなにいいことを言ったのに。
彼は人をうまく読めるほうではなかった。ただ、生地を待つように、人を待つことだけは、できた。澪さんは、いつも、何かを演じているように見えた。完璧で、隙がなくて、だからこそ、どこか、寒そうだった。けれど、枯れる花の話をしたときだけ、その人の、本当の体温が、ちらりと見えた気がした。
七瀬はその体温のほうを信じることにした。理由はうまく言えなかった。
窓の外で海鳥が鳴いた。オーブンの予熱が低くうなっていた。彼女は自分の手のひらが、わずかに汗ばんでいるのに気づいた。任務の緊張とは違う汗だった。
この男は危ないと澪は思った。
今までとは違う意味で危ない。




