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スパイが恋愛リアリティショーに参加する物語  作者: もしものべりすと


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第6章「恋を演じる技術」

覚悟を決めた人間の動きには、迷いの脂肪がそげ落ちる。


 迷いが消えると動きから無駄が抜ける。指先まで目的だけに従う。澪は久しぶりに、その澄んだ感覚を取り戻していた。


 任務に集中している間だけ、彼女は静かになれた。考えなくてすむ。感じなくてすむ。標的をただの標的として見ていられる。七瀬の声も、浜辺の火も、本物の笑顔も、その澄んだ静けさの外側へ、遠ざけておける。


 そう自分に言い聞かせながら。


 澪はその朝鏡の前で自分の顔を点検した。化粧の濃さ。笑い皺の作り方。今日からは恋する女として完璧に振る舞う。本物の心臓を一つも使わずに、本物の恋に見えるものを組み立てる。それが任務を覆う最良のカバーになる。


 まず仕込んだのは希少性だった。


 影響力の武器の一つに、希少性という心理がある。人は手に入りにくいものを欲しがる。誰にでも笑う女より、自分にだけ特別な顔を見せる女に、人は惹かれる。だから澪は、全員に均等だった態度を、その日から少しだけ偏らせた。鵜飼の前でだけ一瞬の素を覗かせる。覗かせたふりをする。彼にだけ見せていると思わせる。


 次に一貫性を使った。


 最初に小さな同意を引き出せば、人はその態度を保とうとする。澪は鵜飼にごく軽い頼みごとをした。プールサイドの椅子を一つ動かしてほしい。それだけだ。彼が応じれば、次はもう少し大きな頼みが通りやすくなる。小さな承諾の積み重ねが、やがて大きな信頼に育つ。業界ではこれをフット・イン・ザ・ドアと呼ぶ。一度ドアに足を入れさせれば扉は開いていく。


 鵜飼は椅子を動かした。そしてわずかに目を細めた。


「澪さんって、人を動かすの、上手ですね」


 冗談めかした口調だった。だが目は笑っていなかった。澪は内心で警戒度を上げた。この男は、自分が動かされていることに気づいている。気づいた上で動いてみせた。試している。こちらの手の内を。


 面白いと澪は思った。久しぶりの感覚だった。互いに正体を隠した者同士の静かな探り合い。これなら戦える。これは彼女の世界の言葉だ。


 その日の昼澪はひとつの噂をそっと撒いた。


 桐谷が鵜飼を気にしているらしいと。事実かどうかは関係なかった。そう聞けば桐谷は鵜飼を意識する。意識すれば態度に出る。態度に出れば、噂は、ひとりでに現実になっていく。澪は、ありもしない流れを、言葉だけで作り、そこに本物の感情を流し込んだ。


 夕方には桐谷が鵜飼の隣に座っていた。澪の撒いた種が芽を出していた。彼女はそれを横目で見ながら、次の一手を考えていた。


 その夜、カップリングの結果、澪は鵜飼との特別なディナーを引き当てた――ように見えるよう、票を操作した。誰に好意を持たせ誰の票をどこへ流すか。一日あれば、十二人の感情の地図は彼女の思うままだった。


 特別なディナーの前に、その日の昼、参加者は、ある課題を与えられた。


 ふたり一組で、互いの長所を、カメラの前で語り合うという課題だった。澪はそれを好機に変えた。誰と誰を組ませるか。番組は参加者の希望を募った。澪は、自分の希望を出す前に、何人かの耳に、そっと囁いておいた。あの人あなたと組みたがってたよ。


 ほとんどは嘘だった。だが、その囁きは、参加者たちの希望を、澪の望む形に流していった。気づけば、組み合わせは、彼女の描いた図のとおりになっていた。誰も操られたとは思わない。みな自分で選んだと思っている。


 澪はその仕上がりを満足とともに眺めた。同時にいつものかすかな虚しさを覚えた。これだけ鮮やかに人を動かせて、自分は、誰の心も、本当には動かしていない。


 ふたりは庭のテラスで向かい合った。


 潮風がテーブルの蝋燭の炎を揺らす。皿の上の魚は、身がほどけるほど火が通っていた。澪は適度に料理を褒め適度に自分の話をした。すべて作り物の話だ。架空のフラワーアーティストの架空の半生。けれど涙ぐむタイミングも、声を落とす場所も、完璧だった。


 鵜飼は聞き上手だった。そして自分のことはほとんど語らなかった。


 ディナーは静かに進んだ。


 澪は、料理を褒めながら、鵜飼の手元を、さりげなく観察した。ナイフの握り方。グラスを置く位置。彼は何ひとつ無駄な動きをしなかった。隙のない男だ。隙のない男はたいてい隠し事がある。


 澪は自分の作り話をいくつか披露した。架空のフラワーアーティストの半生。涙ぐむ間合いも声を落とす場所も完璧だった。


 鵜飼は感心したようにうなずいた。だがその目は笑っていなかった。値踏みする目だった。澪が、自分と同じ種類の人間かどうかを、確かめる目だった。


 澪はエリシテーションを試みた。会話の中で、相手に気づかれずに情報を引き出す話術だ。たとえばわざと間違ったことを言う。すると人は訂正したくなる。「投資のお仕事って、海外を飛び回るんでしょうね」と的外れに振れば、相手は「いや、実際は」と本当のことを語りだす。挑発的な誤りは真実を釣る餌になる。


 だが鵜飼は訂正しなかった。


「ええまあそんな感じです」


 曖昧に流す。決して自分の輪郭を見せない。澪と同じ防御だった。彼女の餌に彼は食いつかなかった。互いに、相手が訓練された人間だと確信した夜だった。


 ディナーは収穫のないまま終わった。


 鵜飼は最後まで自分の輪郭を見せなかった。澪のエリシテーションを、滑らかにかわし続けた。挑発にも乗らず、お世辞にも溶けず、ただ当たり障りのない笑みを返してくる。これほど手強い相手は久しぶりだった。


 席を立つとき鵜飼がふと言った。あなたといると、自分が試されている気がする、と。澪は可愛らしく首をかしげてみせた。私なんかただの花屋ですよと。鵜飼は何も言わずに笑った。その笑みの奥に澪は自分と同じ匂いを嗅いだ。正体を隠して生きる者の、職業的な疲労の匂いだった。


 ディナーの帰り、澪が屋敷の廊下を歩いていると、キッチンに灯りがついていた。


 七瀬結がひとりで生地をこねていた。こんな夜更けに。


「眠れなくて」


 澪が問う前に男が言った。


「明日のパン発酵が間に合わなくて。先に仕込んどこうと思って」


 澪は立ち止まった。立ち去るべきだった。鵜飼との一夜の余韻を、カメラに見せておくべきだった。なのに足が動かなかった。粉と酵母の匂いが廊下まで流れてきていた。あたたかい匂いだった。テラスの蝋燭よりもずっと。


「ディナー、どうでした」


 七瀬が手を止めずに聞いた。詮索ではなかった。本当にただ気になっただけの声だった。


「楽しかったですよ」


 澪は微笑んだ。完璧な微笑みだった。


 七瀬が顔を上げた。粉のついた手でこちらをまっすぐ見た。


「今嘘つきましたよね」


 澪の心臓がひとつ跳ねた。


「……どうして」


「澪さん、嘘つくとき、まばたきが止まるから」


 誰にも気づかれたことのない癖だった。訓練で消そうとして、消しきれなかった、たった一つの綻び。何百人もの人間を欺いてきて、それを見抜いた者は、ひとりもいなかった。


 なのに、パンをこねる男が、こともなげに言い当てた。


 澪は、生まれて初めて、何を言えばいいかわからなくなった。

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