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スパイが恋愛リアリティショーに参加する物語  作者: もしものべりすと


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第5章「カメラを隠れ蓑に」

眠れないまま、澪は問いを転がし続けた。


 天井の隅で、カメラの赤い光が規則正しく明滅していた。眠っている間も撮られている。澪は寝返りを打ちその光から目をそらした。シーツは湿った夜気を吸って、肌にまとわりついた。


 問いは単純だった。気配を消せない場所で、どうやって気配を消す仕事をするのか。受け渡しも接触も、すべて人目を避けて行うのが鉄則だ。なのにここには人目しかない。彼女は何度も同じ壁にぶつかり、何度も跳ね返された。


 頭の芯が熱を持ちはじめていた。彼女はこういう袋小路を知っていた。出口は、たいてい、いちばん見たくない方向にある。


 二十四時間撮られる場所で、どうやって工作を進める。気配を消せないなら、運営担当官の仕事は成り立たない。情報の受け渡しも、協力者との接触も、すべて人目を避けて行うのが鉄則だ。なのにここには人目しかない。


 明け方近く答えが降りてきた。


 隠せないなら晒せばいい。


 単純な反転だった。だがそれが核心だった。この島で最も自然で、最も注目され、最も「撮られて当然」の行動とは何か。恋だ。誰かに惹かれ、近づき、ふたりきりになろうとする。それは番組が望む絵そのものだ。カメラは喜んでそれを追う。


 ならば恋を演じればいい。


 恋人同士がふたりで庭の隅へ消えても、誰も怪しまない。むしろ番組は盛り上がる。澪が標的に近づき、長い時間をともに過ごし、耳元で囁いても、それは「距離を縮めるふたり」にしか見えない。恋という最も目立つ行為が、最も完璧な隠れ蓑になる。カメラを避けるのではない。カメラに見せたいものだけを見せる。


 彼女はそれを「カバー」と呼んだ。身分偽装。本来は、スパイが正体を隠すための表の顔を指す言葉だ。だがここでは、恋そのものが彼女のカバーになる。


 決意が固まると不思議と眠れた。


 翌日澪は動きを変えた。


 まず標的候補の鵜飼に自然な距離で近づいた。とはいえ正面からは行かない。彼女のやり方は、相手に「自分から近づいた」と錯覚させることだ。鵜飼が手にしていた本に、さりげなく話題を振る。彼が好きだと匂わせた音楽を、偶然知っているふりで口にする。共通点を演出し好意を芽生えさせる。業界では好意もまた影響力の武器の一つだ。人は好きになった相手の頼みを断れない。


 恋を隠れ蓑にすると決めてから、澪の動きには、迷いがなくなった。


 彼女は屋敷の中をもう一度別の目で歩いた。恋人たちが、自然にふたりきりになれる場所はどこか。庭の東屋。プールサイドの奥。物資を運ぶ通路の影。そこは同時に、カメラの音声が、届きにくい場所でもあった。


 恋人が囁き合うのと、密談するのは、傍目には、見分けがつかない。


 澪はその重なりを頭の中で地図にした。どこで、誰と、どんなふうに過ごせば、恋に見え、かつ、人目を盗めるか。恋愛番組という舞台が、まるごと、彼女の作戦盤に変わっていった。


 鵜飼は思いのほか乗ってこなかった。


 愛想はいい。けれど芯のところで一線を引いている。澪が踏み込むと滑らかにかわす。これは訓練された反応だった。澪の確信は強まった。この男はただの投資家ではない。何かを守っているか何かを探っている。


 澪はその日の大半を鵜飼の観察に費やした。


 彼が、いつ起き、いつ誰と話し、いつ、ひとりになるか。一日の行動を頭の中で地図にしていく。標的にするなら習慣を知らねばならない。習慣の隙間に接触の機会は隠れている。


 鵜飼は隙の少ない男だった。朝は早く人より先に庭を歩く。会話では自分から多くを語らない。だが物置の棚のある缶。彼は、一日に一度だけ、そこにさりげなく触れていた。澪はその動作を見逃さなかった。意味はまだわからない。だが、意味のない動作を、訓練された人間はしない。


 その日の夕方、最初のカップリング投票が行われた。


 参加者がそれぞれ、今いちばん気になる相手の名を、無記名で投じる。最も票を集めた組が、特別なディナーの権利を得る。澪の狙いは明確だった。鵜飼の票を引き近づく口実を作る。彼女は一日かけて鵜飼に好意を芽生えさせる種をまいた。票が来る確率は高い。


 司会者が結果を読み上げた。


 澪に入った票はひとつ。


 鵜飼からではなかった。


 司会者が結果を読み上げていく。


 澪は鵜飼からの票を半ば確信していた。一日かけて、彼に好意を芽生えさせる種を、まいてきた。投票は無記名だ。誰が誰に入れたかは、本人が明かさないかぎり、わからない。だが澪にはたいてい読めた。読めるはずだった。


 その読みがわずかにずれた。


 七瀬結からだった。


 澪は表情を変えなかった。だが内心で計算が乱れた。あの男に、好意を芽生えさせる種など、まいていない。むしろ距離を置いていた。読めない相手は危ういからだ。なのに票は彼から来た。


 七瀬は照れもせず隠しもせずただ言った。


「澪さんの活ける花、見てて気持ちよかったから」


 理由はそれだけだった。


 計算ではない。駆け引きでもない。ただいいと思ったから入れた。そういう票だった。澪の網には、まったく引っかからない種類の動機だ。


 その週本土から最初の物資が届いた。


 食材や日用品を積んだ船が桟橋に着く。澪は、参加者として、荷下ろしを手伝うふりをした。実際には別の作業をしていた。小麦粉の袋の決まった一つ。その縫い目に、外の協力者からの応答が、隠されているはずだった。


 彼女は袋を抱え厨房へ運ぶ。その途中指先が縫い目を一瞬だけ探る。あった。折り畳まれた薄い紙片。澪はそれを手のひらに滑り込ませた。動作はコンマ何秒だった。誰も見ていない。誰も気づかない。


 厨房の隅で彼女は紙片を開いた。短い符牒だった。鵜飼の缶の名前についてまだ手がかりなし。引き続き洗うと。澪はそれを記憶し口に含んで溶かした。証拠は残さない。


 その夜、澪は窓辺で花の向きを直しながら、ひとり笑った。乾いた笑いだった。


 完璧に組み立てた作戦の初手で、計算外の一票が飛んできた。しかもよりによって、いちばん読めない相手から。


 投票結果が読み上げられたあと、澪は七瀬の横顔を盗み見た。


 彼は、自分が誰に入れたかを、隠そうともしなかった。照れもしなかった。ただいいと思ったから入れた。その単純さが澪にはうまく飲み込めなかった。人の好意にはたいてい裏がある。見返りの計算がある。下心がある。澪自身がそうやって好意を道具にしてきた。だから、裏のない好意というものを、彼女は信じられなかった。信じ方を知らなかった。


 鵜飼はその夜こちらを見もしなかった。計算高い男だ。澪が仕掛けた糸の在処を、おそらく感づいている。澪はふたりの男の、あまりに違う眼差しを、並べて思った。読めるのに油断のならない男と、読めないのに警戒すべき男。どちらも、彼女の網には、まっすぐ掛からなかった。


 彼女はまだ、それを小さな誤差として処理していた。


 誤差ではないと気づくのはもっと後のことだ。

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