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スパイが恋愛リアリティショーに参加する物語  作者: もしものべりすと


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第4章「ガラスの監獄」

二日目の朝、参加者は中庭に集められ、番組の正式なルールが告げられた。


 南の島の朝は、白く眩しかった。漆喰の壁が光を跳ね返し、目の奥がちりちりと痛んだ。参加者たちは寝起きの顔で並び、これから自分を縛る規則を、まだどこか他人事のように聞いていた。


 澪だけが、違う聞き方をしていた。


 司会者の言葉が、ひとつずつ、檻の格子を組み上げていく。通信機器の没収。二十四時間の撮影。逃げ場のない親密さの強要。退路が一本ずつ塞がれていく音を、彼女は胸の奥で聞いた。気配を消して生きてきた人間にとって、二十四時間さらされ続ける場所は、想像しうるかぎり最悪の戦場だった。


 それでも彼女は、表情を一ミリも崩さなかった。隣の参加者と同じ顔で、くすぐったそうに肩をすくめてみせた。


 司会者の声は明るかった。だが内容を一つずつ聞くうちに、澪の体温は静かに下がっていった。


 第一に、私物の通信機器はすべて没収される。スマートフォンも、時計型の端末も。外の世界との連絡は完全に断たれる。第二に、撮影は二十四時間途切れない。寝室にも、洗面所の手前にも、庭の隅にもカメラがある。死角と呼べる場所は、告白部屋ただ一つ。第三に、参加者は定期的に「親密チャレンジ」を課される。手をつなぐ。見つめ合う。秘密を打ち明ける。心の距離を、強制的に縮める仕掛けだ。


 澪は表向き、他の参加者と同じようにくすぐったそうな顔を作った。内側では、まったく違う計算が走っていた。


 これは最悪だ。


 彼女の最大の武器は、気配を消すことだった。誰の記憶にも残らず、誰の視界からも外れ、影のように動く。その技術が、ここでは一切使えない。二十四時間、十二人ぶんの目と、数えきれないレンズが、彼女の一挙手一投足を記録する。まばたきの癖さえ、後から何度でも見返される。グレーマンは、光の中では生きられない。


 しかも端末を奪われた。司令との連絡線が、表向きは切れた。


 もっとも、それは織り込み済みだった。彼女は端末を二つ持ち込んでいた。一つは没収用の囮。もう一つは、マットレスの縫い目に隠した本命だ。だが本命とて、頻繁には使えない。電波の発信は足がつく。連絡は花の合図と、外との物理的な受け渡しに頼ることになる。


 澪は中庭を見渡した。


 ふと、視界の端に違和感が引っかかった。


 桐谷涼香の隣。番組が「今回の目玉」と紹介していた参加者――鵜飼という名の、物腰の柔らかい男がいた。プロフィールでは投資家。穏やかで、誰にでも好かれる笑顔を持っている。澪が機関から渡された資料で、最も「鍵」に近いと目されていた人物だ。


 その鵜飼が、ルール説明の途中で、ほんの一瞬だけ天井のカメラを見上げた。


 普通の参加者はカメラを意識しない。意識しても、無意識に避けるか、逆に見栄えを作る。だが鵜飼の視線は違った。位置を確認する目だった。どこに何台あるか、数えている目。澪自身がやっているのと、同じ動きだった。


 澪の背筋に、細い緊張が走った。


 盤上に、自分以外の駒がいる。


 この男も、ただの参加者ではないかもしれない。情報を狙う者か、あるいは守る者か。いずれにせよ、訓練された人間の目だった。澪は何事もなかったように視線を外し、笑顔の下でその事実をしまい込んだ。


 その夜、参加者全員で、最初の夕食をとった。


 長いテーブルに、十二人が着いた。料理が運ばれ、ぎこちない会話が、あちこちで生まれては消えた。澪は、隅の席で、皿に手をつけるふりをしながら、テーブル全体を、一枚の盤面として読んでいた。


 誰が、誰の話に笑い、誰が、誰の言葉を遮るか。声の大きい男は、注目を欲しがっていた。よく笑う女は、場の空気を和ませる役を引き受けていた。沈黙に強い者は、観察に徹していた。鵜飼は、当たり障りのない相づちで、自分の輪郭を巧みに隠していた。そして七瀬は、ただ、料理をおいしそうに食べていた。隣の人に、パンを取ってあげていた。


 澪は、その様子を見て、ふと、箸を止めた。


 この男だけが、盤面の上で、駒として動いていなかった。動かそうとしても、掴みどころがない。彼女は、その違和感を、また書きとめた。


 チャレンジの初回が始まった。


 くじ引きでペアが決まり、三十秒間、相手の目を見つめ合う。澪のペアは、よく笑う若い男だった。澪は完璧にこなした。恥じらいを演じ、視線をそらしては戻し、頬を染めてみせる。表情の管理は、彼女の本職だ。


 だが三十秒は、思いのほか長かった。


 相手の目の奥に、何の裏もないのが見える。ただ照れている。ただ楽しんでいる。澪はその空っぽな素直さの前で、自分がどれほど多くのものを隠しているかを、いやでも意識させられた。見つめ合うという行為は、見る行為であると同時に、見られる行為だった。彼女は、見られることに慣れていなかった。


 昼が過ぎ、午後の自由時間になった。


 澪は部屋に戻った。荷を確かめるためだ。任務に就く者の習慣として、自分の持ち物の配置を、出るときに必ず記憶する。スーツケースの角を、壁から指三本ぶん。ファスナーの引き手を、右へ四十五度。誰かが触れれば、必ずわかるように。


 扉を開けて、澪は動きを止めた。


 スーツケースが、壁から指二本ぶんの位置にあった。


 数センチ。たった数センチ、こちらへ寄っている。


 彼女は呼吸を整え、室内を見回した。荒らされた形跡はない。中身も無事だ。ただ、置き場所だけが、わずかにずれていた。


 偶然ではない。清掃でもない。清掃なら、もっと大きく動くか、まったく動かないかのどちらかだ。これは、開けて、確かめて、元に戻そうとした手つきだった。元に戻したつもりで、わずかに失敗した手つき。


 つまり、この島には自分と同じ言語を話す者がいる。


 他人の持ち物の配置から、痕跡を読む者が。


 澪は窓辺の花を見た。一輪は、昨日のまま右を向いていた。順調。皮肉な合図だ。


 彼女は花の向きを、そのままにした。動揺は、誰にも渡さない。


 その日の午後、澪はもう一度、自分の部屋を検めた。


 スーツケースのずれは、見間違いではなかった。誰かが開け、中を確かめ、元に戻そうとして、わずかに失敗していた。荷の中身に、抜き取られたものはない。だが、それは奪うための捜索ではなかった。確かめるための捜索だった。誰かが、朝倉澪という女が本当に花屋なのかを、疑っている。


 澪は廊下に出た。すれ違ったスタッフに何気なく道を尋ね、その反応を測った。視線の動き。間の取り方。声の高さ。ほとんどの人間は、何も知らない裏方だった。だが、ひとりかふたり、妙に滑らかな者がいた。質問を質問で返さない者。余計なことを一切口にしない者。


 訓練された人間の、沈黙の質だった。


 澪は笑顔で礼を言い、部屋へ戻った。背中に、見えない視線が貼りついている気がした。気のせいかもしれない。気のせいではないかもしれない。その区別がつかないことこそが、いちばん神経を削った。


 夕方、参加者は、撮影前のメイクを受けた。


 澪の担当は、真壁という男だった。物腰は柔らかく、手つきは丁寧だった。彼は、澪の顔にブラシを滑らせながら、当たり障りのない世間話をした。緊張してますか。慣れない場所は、疲れますよね。


 澪は、適度に相づちを打ちながら、鏡越しに、彼を観察した。


 真壁の目は、彼女の顔を見ていなかった。鏡に映る、部屋全体を見ていた。誰がいつ出入りし、背後で誰が何を話すか。手はメイクを施しながら、視線は、別の仕事をしていた。澪自身が、初対面の部屋でやることと、同じだった。


 偶然だろうか、と彼女は思った。考えすぎかもしれない。だが、訓練された目は、訓練された目を見分ける。澪は、その違和感を、胸の奥に書きとめた。


 夜、屋敷が寝静まったころ、澪は天井の赤い光を見上げて長く考えていた。


 監視されているのは、いつものことだ。けれど、誰に監視されているのかわからないのは、初めてだった。

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