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スパイが恋愛リアリティショーに参加する物語  作者: もしものべりすと


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第3章「花は嘘をつかない」

端末の画面には、文字はなかった。


 文字のない合図は、最も安全な合図だった。文字は残る。残れば証拠になる。点滅のリズムだけなら、たとえ傍受されても意味は読み解けない。澪はこうした細部の積み重ねが、生死を分けることを知っていた。一度の油断が、命取りになる。あの夜のように。


 彼女はその記憶に蓋をした。今は考えない。考えてはいけないものは、抽斗の奥に押し込んで鍵をかける。


 点滅のパターンだけが残っていた。長短の組み合わせ。それは「定時連絡、明朝、所定の手順で」を意味した。澪は内容を頭に刻むと、端末を元の隠し場所へ戻した。マットレスの縫い目を一度ほどき、また縫う。糸の色まで合わせてある。誰かがここを開けても、開けた痕跡だけは残るように仕掛けてあった。


 翌朝、澪は誰より早く起きた。


 キッチンに立ったのは口実だった。花瓶の水を替える。庭から数本の花を切ってくる。その動作の中に、合図の更新が紛れている。窓辺の一輪を昨日のまま右へ。順調。表の協力者――この島の外で、彼女からの花の写真を毎朝チェックしている誰か――に、それで伝わる。


 花を扱う澪の手つきは、本物だった。


 偽の経歴を業界ではレジェンドと呼ぶ。出身地、学歴、職歴、家族構成。架空の人生をまるごと一人ぶん組み立て、矛盾なく裏づける。朝倉澪というフラワーアーティストには、実在する個展の記録があり、古い顧客の声があり、検索すれば出てくる過去がある。すべて作り物だ。けれど花を活ける技術だけは、嘘ではなかった。任務のために本当に学んだ。嘘の人生にたったひとつ混ぜた本物。それが彼女を支えていた。


 茎を斜めに切る。水切り。葉を落とす。


 手を動かしていると、心が静かになる。喉の奥の冷たさだけが、いつも消えなかった。


 背後で物音がした。


 澪は振り向く前に、足音の主を知っていた。重さと歩幅。昨日のうちに記録してある。七瀬結だ。


「おはようございます。早いですね」


 男はあくびをしながら入ってきた。手にボウルを抱えている。粉の匂いがした。小麦と、ほのかな酸味。発酵の匂いだ。


「パン、焼いていいか聞いたら、いいって言われたんで」


 男はキッチンの一角に陣取り、慣れた手つきで生地を広げた。指の関節に粉がつく。火傷の痕がまた見えた。古い、いくつもの痕。窯の鉄に触れ続けた手だ。


 澪はその手から、ようやくひとつだけ情報を読み取った。この男は、長い時間をかけて何かを続けてきた。続けるという行為そのものを知っている手だった。


「きれいですね、その花」


 七瀬が手を止めずに言った。


「花言葉とか、詳しいんですか」


「少しは。仕事なので」


「へえ。じゃあ、これは何か意味があるんですか。向き、揃えてますよね」


 澪の指先が止まりかけた。止めなかった。


 七瀬は花瓶を覗き込み、無邪気に笑った。


「なんか、暗号みたいだなって。並べ方に意味があるみたいで」


 冗談だった。男に他意はない。ただ目についたものを、思ったまま口にしただけだ。


 だが澪の背筋を、冷たいものが走った。読めない人間というのは、こういうところが厄介だ。隠す気がないから、見たままを言う。見たままが、ときに核心を突く。


「ふふ。そう見えます? ただ、見栄えで揃えてるだけですよ」


 澪は花の向きを、ほんの少しだけ崩した。わざと、無造作に。意味のない並びに見えるように。


「そっか。きれいだから、意味があるのかと思った」


 七瀬はそれ以上追わなかった。生地を畳み、また広げる。リズミカルな音が、朝のキッチンを満たした。


 澪はその横顔を盗み見た。


 七瀬は、生地を畳んでは広げ、また畳んだ。


 規則正しい音が、朝のキッチンを満たしていた。窓から差す光が、調理台に散った小麦粉を、白く浮かび上がらせる。彼の手つきには、迷いがなかった。長い時間をかけて、同じことを続けてきた手だった。澪は、その横顔を盗み見た。読もうとして、読めなかった。


 彼女の技術は、相手の欲しいものを見抜き、与え、心を開かせることだ。業界で言うSADRAT――発見、評価、育成、勧誘、運用、終了。標的を選び、近づき、信頼を築き、最後に裏切らせる手順。その第一歩は常に、相手が何を欲しているかを掴むことから始まる。


 だが七瀬からは、欲が見えなかった。


 彼が今、欲しているのは、よく膨らんだパンだけのように見えた。


「焼けたら、食べてくれますか」


 七瀬が言った。見返りを求めない声だった。


「見返りとか、いらないんで。ただ、誰かに食べてほしくて焼くんで」


 澪は言葉を失った。


 与えてから求めるのが、彼女のやり方だった。小さな親切で相手に貸しを作り、返したいという気持ちを利用する。業界ではそれを返報性と呼ぶ。人は受け取ると、返さなければと感じる。その心理が、籠絡の入り口になる。


 ところがこの男は、見返りを最初から放棄していた。返報性の罠を、無自覚に無効化していた。


 澪の道具が、また一つ、この男には効かない。


 彼女は手元の花に視線を落とした。


 考えてみれば、自分は誰かに何かを、見返りなしで差し出したことがあっただろうか。記憶をたどっても、出てこなかった。彼女の親切は常に投資だった。笑顔は釣り針で、優しさは餌だった。回収するために与える。それが染みついて、もう「ただ与える」のやり方を忘れていた。


 パンの匂いが、キッチンに満ちていく。


 オーブンの中で生地がふくらむ気配がした。窓から差す朝の光が、調理台に散った小麦粉を白く浮かび上がらせる。七瀬は鼻歌も歌わず、ただ淡々と、けれどどこか満ち足りた様子で手を動かしていた。誰のためでもなく、強いて言えば、まだ顔も知らない「食べる誰か」のために。


 澪は、その背中を長く見ていた。


 羨ましい、という感情に近かった。彼女はそれを認めたくなかった。羨望は弱さだ。任務の邪魔になる。彼女は視線を切り、花瓶に最後の一本を挿した。


 花を活け終えたころ、桐谷涼香がキッチンに入ってきた。


 おはよう、と彼女は言い、澪の手元の花瓶を、しばらく眺めた。きれいね、と桐谷は言った。でも、なんだか、几帳面すぎる。花って、もっと無造作なほうが、きれいじゃない。


 澪の指先が、止まりかけた。止めなかった。


 そうかもしれませんね、と彼女は微笑んだ。職業病で、つい揃えちゃうんです。桐谷は、ふうん、と言って、それ以上は追わなかった。ただ、その目が、ほんの一瞬、花瓶の本数を数えたように見えた。澪は、そう感じた。気のせいかもしれない。だが彼女は、その日から、花の本数を、毎日変えることにした。規則性を、消すために。


 窓の外で、海が光っていた。


 彼女はまだ、知らなかった。この読めない男こそが、やがて自分の任務の中心に立つことを。そして自分の壁を、内側から崩していくことを。

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