第2章「嘘がうまい人ほど」
告白部屋を出ると、廊下の空気がやけに濃く感じられた。
告白部屋の赤いランプは、まだ瞼の裏に焼きついていた。あの黒いレンズに向かって、彼女は淀みなく嘘を並べた。緊張も後ろめたさもなかった。嘘は彼女にとって母国語のようなものだった。
難しいのはこれから始まる芝居のほうだ。十二人が同じ屋根の下で眠り、起き、互いの腹を探り合う。二十四時間幕の下りない舞台。気を抜けば、ほんの一瞬の素が、どこかのレンズに拾われる。澪は廊下の鏡で、自分の表情をもう一度点検した。完璧な恋に臆病な女の顔がそこにあった。
密室で嘘をつくのは、澪にとって呼吸と変わらない。むしろ易しい。難しいのはこの先だ。十二人がひとつ屋根の下で眠り、笑い、互いを探り合う。二十四時間休符のない芝居が始まる。
その夜、参加者たちは広間の暖炉のまわりに集まった。
暖炉と言っても本物の火ではない。南の島に火はいらない。電気仕掛けの炎が、揺れる影だけをそれらしく壁に投げていた。偽物の火を囲んで本物のふりをする。澪はそのちぐはぐさが、この島の本質を言い当てている気がした。
飲み物が配られ誰かがゲームを提案した。順番に、自分の「いちばんの嘘」を打ち明けるという他愛のない遊びだ。
話は盛り上がった。学生時代に親へついた嘘。恋人に隠した小さな浮気。経歴を少し盛った話。みな笑いながら、自分を傷つけない範囲の嘘を選んで差し出していた。安全な告白だ。澪はそれを観察していた。人がどんな嘘を「いちばんの嘘」として選ぶか。そこに性格が出る。見栄っ張りは見栄の嘘を、寂しがりは寂しさの嘘を選ぶ。
桐谷の番が回ってきた。
いちばんの嘘、と彼女は考えるふりをして、艶やかに笑った。私本当は人見知りなんです。誰かがまさかと笑った。場が沸いた。
澪はその笑顔を観察していた。完璧な見せ方だった。人見知りを装うことで逆に場の中心に立つ。計算された一手だ。この女も何かを隠している。
ただ隠し方が素人ではなかった。
澪の番が来た。
彼女は迷うふりをして、ちょうどいい嘘を用意した。
「中学のとき、ピアノの発表会が嫌で、熱があるって嘘ついて休んだことがあって。それから、ずっと弾けないふりをしてました」
優しく、無害で、少しだけ可愛げのある嘘。全員がやわらかく笑った。完璧だった。彼女がついた本物の嘘――今この島にいる理由そのもの――は、当然、誰の耳にも届かない。
順番が回り左端の男にたどり着いた。
七瀬結はしばらく考えていた。考えるふりではなかった。本当に探していた。
「いちばんの嘘……あんまり、思いつかないですね」
場が少しだけ白けた。つまらない答えだと思われたのだ。だが男は続けた。
「嘘って、つくとしんどいから、なるべくつかないようにしてて。でも一個だけ思い出した。昔、自分はパン屋に向いてないって、ずっと自分に言い聞かせてた。向いてないって思い込んでたほうが、楽だったから」
誰かが「それ嘘なんですか」と笑った。
「うん。いちばん下手な嘘でした。自分にしかつけない嘘」
男は頭をかいた。そしてふと顔を上げて言った。
「嘘がうまい人ほど、たぶん、自分にいちばん嘘ついてるんだと思います」
悪意のない声だった。誰かを指したわけでもない。暖炉の偽物の火を見ながら、思いついたことをそのまま口にしただけだ。
なのに澪は、みぞおちの奥を細い針で刺されたような気がした。
彼女は反射的に微笑みを保った。表情筋は完璧に仕事をした。けれどほんの一瞬まばたきが消えた。嘘をつくとき、あるいは図星を突かれたとき、彼女のまぶたは動きを忘れる。本人も気づかないたったひとつの綻び。
誰も気づかなかった。
いやひとりだけ。七瀬がこちらを見ていた。何かを暴いた目ではない。心配そうな目だった。澪はその視線の意味を測りかね、初めて、相手の出方が読めない不安を覚えた。
偽物の暖炉の火が壁に揺れる影を投げていた。
南の島に本物の火はいらない。電気仕掛けの炎が、それらしくゆらめいているだけだ。澪は、その作り物の明かりの中で、自分の手元を見ていた。グラスの中の氷が小さな音を立てて崩れた。指先がわずかに強張っていた。
なぜこんなに動揺している。
澪は胸の内で自分を叱った。図星を突かれることなど、これまで何百回もあった。標的に正体を疑われ、銃口を向けられたことすらある。そのたびに彼女は、心拍ひとつ乱さずに切り抜けてきた。なのに今、火傷の痕のある男の何気ない一言が、皮膚を破って入ってくる。
理由はわかっていた。
他人に図星を突かれるのは怖くない。痛むのは、自分でも触れずにいた場所を、無防備な手でそっと押されたときだ。七瀬の声には悪意も計算もなかった。剥き出しの善意だけがあった。澪は悪意には強い。計算には強い。武装した相手とはいくらでも戦える。けれど無防備な善意の前では、自分の武装が急に重く、滑稽に思えてくる。
彼女は深く息を吐き肩の力を抜いた。観察対象に感情を動かされるのは、運営担当官として最悪の兆候だ。距離を取れ。読め。利用しろ。彼女は自分にそう命じた。
「澪さんは、嘘うまそうですよね」
桐谷涼香が、からかうように言った。場の流れを引き取って、自分へ注目を戻す手つきだ。澪はそれに乗った。
「どうかな。練習すれば、誰でもうまくなりますよ」
本心だった。皮肉なほどに。
会が終わりそれぞれ部屋へ散った。澪は窓辺に挿した一輪の花の向きを確かめてから、ベッドに横たわった。
天井の隅で、カメラの小さな赤い光が呼吸のように明滅している。眠っている間も撮られている。気配を消す技術で生きてきた人間にとって、これほど居心地の悪い場所はなかった。
目を閉じても男の声が消えなかった。嘘がうまい人ほど、自分にいちばん嘘をついている。
馬鹿げている。ただのパン屋の戯言だ。
そう自分に言い聞かせて澪は気づいた。今まさに自分に嘘をついている。
眠れないまま澪はベッドを出た。
喉が渇いていた。水を飲みに暗い廊下を足音を殺して歩く。屋敷は寝息と空調の低い唸りに満ちていた。キッチンの手前で彼女は足を止めた。
暗がりに人影があった。
鵜飼だった。彼は、明かりもつけず、窓辺に立って、夜の海を見ていた。澪の気配に気づくとゆっくり振り返った。眠れないんですかと彼は言った。穏やかな声だった。澪はええと短く答えた。ふたりはしばらく何も言わずに立っていた。
その沈黙は、参加者同士の、気まずい沈黙ではなかった。互いの輪郭を闇の中で測り合う沈黙だった。澪は、この男が、ただ眠れずにいるのではないと感じた。彼もまた何かを見張っている。鵜飼は、おやすみなさい、とだけ言って、自分の部屋へ消えた。
澪はコップ一杯の水を飲んだ。冷たさが喉をゆっくり落ちていった。
その夜、枕の下に隠した薄い端末が、一度だけ震えた。
司令からの最初の接触だった。




