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スパイが恋愛リアリティショーに参加する物語  作者: もしものべりすと


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第1章「完璧な初対面」

桟橋に小型船が着いたとき、朝倉澪は人生で三十七回目の初対面を演じていた。


 数えているのは見栄ではない。職業病だ。彼女は何度でも別の誰かになれる。なれてしまう。だから今まで会った人間の数だけ、自分の名前があった。今日の名前は朝倉澪。フラワーアーティスト。花を活ける女。穏やかで少し人見知りで恋に臆病。そういう人物を、彼女は皮膚の内側まで着込んでいた。


 船を降りる足取りに、わざと小さなためらいを混ぜる。慣れない場所に来た普通の女がやる、あの半拍の遅れだ。完璧に自然に。完璧に無害に。


 迎えのスタッフが番組名の入った旗を振っていた。『ラスト・ヴィラ』。出会いを求める男女が南の島の屋敷で寝食をともにし、最後にひと組だけが結ばれる。視聴率は国内の同種番組で群を抜いていた。


 砂を踏むと潮の匂いが強くなった。海藻と日焼け止めと、誰かの香水が混ざった匂い。澪はそれをひとつずつ嗅ぎ分けた。匂いは記憶の鍵だ。あとで誰かを思い出すとき、香りが手がかりになる。


 彼女にとって初対面は戦場だった。


 最初の数分で相手の警戒の高さを測る。誰が場を支配したがり誰が支配されたがるか。どこを押せば心が開き、どこに触れれば閉じるか。人は出会って三十秒のうちに、自分の取扱説明書を無意識に差し出してくる。澪はそれを残らず拾う。拾ってしまう。いつか使うために。


 砂浜を歩きながら、彼女はもう一枚の地図を描き終えていた。十二人の心の地図だ。誰と誰がぶつかり誰が孤立するか。その上で自分の駒をどう動かすか。すべてがもう見えていた。


 見えすぎることが彼女の孤独だった。


 屋敷の前庭に参加者が集められていた。


 澪は笑顔をひとつ用意して、全員を視界に入れた。見ているのは顔ではない。靴のすり減り方。爪の手入れ。視線がどこへ逃げるか。手がどこで止まるか。人は口より先に体で本音を漏らす。澪は十二人ぶんの本音を五秒で読み終えた。


 窓と扉の位置も同時に数えた。非常口は西と北東。庭の死角は給湯室の裏。カメラは天井の四隅と、柱に擬装したものが少なくとも九台。これは習慣だった。部屋に入れば出口を数える。それをしない日はまだ一度もない。


 司会の女性が高らかに開幕を告げた。


「ようこそ。ここはあなたの本当の気持ちが試される場所」


 澪は胸の内で薄く笑った。本当の気持ち。皮肉のつもりはないだろうに、よくできた台詞だ。彼女がこの島に持ち込んだものの中に、本当の気持ちだけが入っていない。


 参加者が順に自己紹介を始めた。


 声の大きい男。よく笑う女。沈黙を埋めたがる者と沈黙に強い者。澪はそれぞれにラベルを貼っていく。誰が場を仕切り誰が場に流されるか。後で動かすための地図を頭の中で描いていく。


 澪は十二人を五秒で読み終えていた。


 声の大きい男は爪を噛む癖がある。注目されたいくせに自分に自信がない。沈黙に強い女は、人の話を聞くふりをして、別のことを考えている。よく笑う女は、笑顔で本心を隠す訓練を、無意識に積んできた。


 誰が場を仕切り誰が流されるか。誰の機嫌を取れば全体が動くか。澪の頭の中で、十二人ぶんの取扱説明書が、すでに書き上がっていた。


 人は口を開く前に体で語る。指の動き。視線の逃げ方。足先の向き。それらが本人より雄弁に本音を漏らす。澪は、その声なき言葉を、生まれてからずっと、聞き取って生きてきた。


 その地図の端でひとりだけ妙な人物がいた。


 列の左端に立った男だ。背は高くないが姿勢がいい。日に焼けた手の甲に、薄い火傷の痕が散っていた。古いものだ。料理人の手だと澪は当たりをつけた。男は順番が来るまで、誰のことも観察していなかった。値踏みもしていない。ただ庭の隅で揺れる花をしゃがんで見ていた。


「七瀬結です。パンを焼いています」


 それだけ言って、男は座った。続きを待つ司会者に、男は不思議そうな顔をした。続きなど用意していないという顔だった。


 澪はその男から、一片の情報も読み取れなかった。


 隠している人間は隠している場所がわかる。沈黙の質でわかる。視線の逃げ方でわかる。だが七瀬という男には、隠している気配そのものがなかった。引き出そうとして、引き出すものが見当たらない。澪の技術が初めて空振りした。


 不快ではなかった。むしろ警戒した。読めない相手は危ない。


 次に目を引いたのは列の中央の女だった。桐谷涼香。華やかで自信が指先にまで行き届いている。視線の配り方が訓練されていた。誰に見られているかを常に計算している目だ。


 澪の任務は、この島のどこかにいる一人の参加者に近づくことだった。機関――彼女が属する、名前を表に出さない情報機関――が追う情報の鍵を、その人物が握っている。ある巨大スポンサーが番組の裏で動かしている何かに、つながっている。誰が鍵かはまだ確定していない。だから澪は全員を読む。全員に好かれる。そうして網を絞っていく。


 集合のあと短い自由時間があった。


 澪は割り当てられた部屋で荷を解いた。クローゼットに季節外れの上着を一着。引き出しに、読みかけのふりをした文庫本を一冊。机に花のスケッチブックを一冊。どれも、朝倉澪という女を裏づけるための小道具だった。本物の私物はひとつもない。誰かが部屋を検めても、フラワーアーティストの持ち物しか出てこないように、すべて計算されていた。


 持ち物はその人を語る。だから澪の持ち物はいつも別の誰かを語った。彼女自身を語るものは、この世のどこにもなかった。


 司会者が今夜の流れを説明した。


「初日の夜、皆さんには告白部屋へ入っていただきます。カメラに向かって、今の正直な気持ちを話してください」


 屋敷の一室に、ひとりきりで入る。そこだけが二十四時間撮影の中で唯一、他人の目のない密室だという。皮肉な名前だ。告白部屋。


 澪の頭の片隅で別の意味がかちりと鳴った。


 暗い小部屋にひとりきり。壁の一面が黒いレンズだった。


 澪はその眼を見つめ返した。多くの参加者はここで緊張に声を震わせる。普段は言えない本音を、初めて、誰にも遮られずに吐き出す。だが澪は震えなかった。彼女にとって、カメラに向かって嘘を並べることは、息をするのと変わらなかった。むしろ考えごとにちょうどよかった。


 他人がいない密室。録音される独白。それは情報を流す側にとっても、受け取る側にとっても、使える空間だ。彼女はもう、そこの使い道を三つ思いついていた。


 日が傾くと屋敷は別の顔になった。


 白い漆喰の壁が夕日を吸って薔薇色に染まる。プールの水面が割れた鏡のように光を返す。参加者たちは早くも誰かと誰かの距離を測りはじめ、笑い声の裏で小さな駆け引きが動きだしていた。澪はその空気を肌で読んだ。湿った熱を帯びた、期待と警戒の入りまじった匂い。恋の番組というより、武器を持たない交渉の場に近い。


 彼女はこういう場所が得意だった。得意である自分を好きではなかった。


 部屋に荷物を運ぶふりをして、澪は屋敷の中を一巡した。歩きながら全室の動線を体に刻む。どの廊下が音を響かせどの扉が軋むか。誰かの足音が聞こえる前に、その人物がどこから来るかを言い当てられるように。これは入村前にも済ませてある。番組が公開した間取り図を頭に入れ、島へ渡る船を二度乗り換え、尾行がついていないかを確かめた。業界ではそれをSDR――監視検知ルートと呼ぶ。目的地へ最短で向かわず、わざと遠回りをして、同じ影が二度現れないかを見る移動術だ。


 影はなかった。少なくとも船の上では。


 荷を解くと、スーツケースの底からドライフラワーの束を取り出した。表向きは緊張をほぐすためのお守り。実際には合図の道具だった。花の向きと本数で、外の協力者へ短い言葉を送れる。今日活ける一輪が右を向けば「順調」。左を向けば「中止」。誰の目にもただ花を飾る女にしか見えない。


 澪は一本だけ窓辺の小瓶に挿した。右へ。


 指先がわずかに止まった。


 花を扱うとき、彼女はいつも同じ感覚に襲われる。喉の奥が冷たくなる感覚。理由はわかっている。けれど今は考えない。考えてはいけない過去は、抽斗の奥にしまって鍵をかける。それも訓練のうちだった。


 夜が来た。


 澪の番が回り扉が閉まる。赤いランプが灯った。


 壁の一面がレンズだった。彼女はその黒い眼を見つめ返した。


「では、あなたの本当の目的を、教えてください」


 録音された司会者の声が、決まり文句を流す。


 誰にでも同じことを言っているはずのその一言が、澪にだけ、別の言葉に聞こえた。


 彼女は微笑んだ。完璧な初対面のための微笑みで。

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