表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スパイが恋愛リアリティショーに参加する物語  作者: もしものべりすと


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/24

第10章「本当の笑顔の作り方」

翌日のチャレンジは、ふたり一組での「無人島デート」だった。


 くじではなく参加者同士の希望で組む。澪は当然鵜飼を選ぶつもりだった。任務のためだ。だが名前を書こうとしたとき、ペン先が、ほんの一瞬、迷った。


 迷った自分に澪は驚いた。


 結局彼女は鵜飼を選んだ。理性が勝った。だがその日のデートは進まなかった。鵜飼は終始、当たり障りのない笑顔で、澪の踏み込みをかわし続けた。互いに探り合うだけの収穫のない時間。澪は疲れた。演じることにではない。演じても何も返ってこないことに。


 夕方屋敷に戻ると七瀬が浜辺にいた。


 ひとりで流木を集めていた。


「何してるんですか」


 澪が聞くと、七瀬は振り返って、屈託なく笑った。


「窯作ろうと思って。本物の火で、パン焼きたくて」


 彼は砂の上に石を並べ、流木を組んでいた。子どものような作業だった。けれど手つきは真剣だった。


 澪はなぜか隣にしゃがんだ。


 手伝うつもりはなかった。なのに気づけば流木を拾っていた。湿った木のざらりとした感触。潮の匂い。指の間に入る砂の細かさ。ひとつひとつがやけに鮮明だった。任務のために研ぎ澄ました感覚が、まったく別のもののために働いていた。


 火がついたのは日が沈むころだった。


 小さな頼りない炎だった。けれど本物だった。電気仕掛けの揺れる影だけの偽物ではない。七瀬がそこにちぎった生地をのせた。香ばしい匂いが煙と一緒に立ちのぼった。


 火がなかなかつかなかった。


 湿った流木は、煙ばかり出して、なかなか燃えない。七瀬は根気よく火種を育てた。息を吹きかけ小枝をくべまた吹きかける。澪はその横で火が育つのをただ見ていた。


 やがてちろちろと小さな炎が立った。頼りないけれど本物の火だった。電気仕掛けの揺れる影だけの偽物ではない。


 炎は少しずつ大きくなった。ふたりの顔を赤く照らした。


「焼けた」


 七瀬が、まだ熱いそれを半分に割って、澪に差し出した。


 澪は受け取った。指先が熱かった。ひと口かじると、外は香ばしく、中はやわらかかった。塩気と小麦の甘み。素朴で飾りのない味だった。


 気づけば澪は笑っていた。


 日が水平線に触れていた。


 空が橙から藍へとゆっくり変わっていく。火の明かりが七瀬の横顔を赤く縁取っていた。澪は焼きたてのパンをもうひと口かじった。外は香ばしく中はやわらかい。塩気が舌の上でゆっくりほどけた。


 誰も見ていなかった。カメラは遠くスタッフもいない。この浜辺だけが、二十四時間の監視から、ぽつんとこぼれ落ちていた。澪はふと肩の力が抜けるのを感じた。何週間ぶりかの、演じていない自分が、そこにいた。


 演技ではなかった。台本にも計算にもない笑みだった。生まれて何度目かの本物の笑顔だった。それがどんな顔なのか、彼女は自分で知らなかった。


 七瀬がその顔を見てふと黙った。


「澪さん、今の顔」


「え」


「すごく、いい顔でした」


 澪は、慌てて表情を引っ込めようとした。だが間に合わなかった。一度こぼれたものは戻らなかった。


 しばらくふたりは何も言わずに炎を見ていた。波の音が規則正しく寄せては返した。七瀬は膝を抱えて火を見ていた。澪も隣で同じようにしていた。


 ねえと七瀬がぽつりと言った。澪さんはなんでこの番組に来たんですか。


 澪は用意してあった答えを口にしようとした。素敵な出会いを探して、という、台本どおりの答えを。だがなぜかそれが喉につかえた。本当のことは言えない。嘘も言いたくない。彼女は結局はぐらかした。なんとなくかな。七瀬は、そっか、と言って、それ以上は聞かなかった。


 火の粉がひとつ夜空へ昇っていった。


 火がぱちりと爆ぜた。


 火を囲む時間はゆっくりと過ぎた。


 澪は、自分の感覚が、おかしなふうに研ぎ澄まされているのに気づいた。任務のために鍛えた知覚が、まったく別のもののために働いていた。流木のはぜる音。煙の匂い。指先に残る湿った木の感触。焼けていく生地のふくらむ気配。そのひとつひとつがやけに鮮明だった。


 七瀬は火加減を見ながら、ほとんど喋らなかった。喋らないのに、その横顔は、どこか満ち足りていた。誰のためでもなく、強いて言えば、まだ顔も知らない、いつかの食べ手のために、彼は火を守っていた。


 澪はその姿を長く見ていた。羨ましい、という言葉が、胸の奥でちいさく灯った。彼女はそれを認めたくなかった。羨望は弱さだ。任務の邪魔になる。けれど火の前では、その理屈が、うまく力を持たなかった。


 その夜、澪はマットレスの縫い目を解き、本命の端末を取り出した。定時連絡の時刻だった。司令カラスからの点滅が闇に浮かんだ。


 短い問いだった。


「標的の身辺再確認した。報告の前に一つ訊く。お前、感情移入していないな?」


 澪は、画面を見つめた。


 返すべき答えは決まっていた。していないの一語だ。それが正しい。それが任務だ。


 だが指が動かなかった。


 浜辺で、本物の火を囲んで、本物のパンを食べて、本物の顔で笑った数時間が、まぶたの裏で揺れていた。


 澪は、生まれて初めて、司令への返信を、ためらった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ