第10章「本当の笑顔の作り方」
翌日のチャレンジは、ふたり一組での「無人島デート」だった。
くじではなく参加者同士の希望で組む。澪は当然鵜飼を選ぶつもりだった。任務のためだ。だが名前を書こうとしたとき、ペン先が、ほんの一瞬、迷った。
迷った自分に澪は驚いた。
結局彼女は鵜飼を選んだ。理性が勝った。だがその日のデートは進まなかった。鵜飼は終始、当たり障りのない笑顔で、澪の踏み込みをかわし続けた。互いに探り合うだけの収穫のない時間。澪は疲れた。演じることにではない。演じても何も返ってこないことに。
夕方屋敷に戻ると七瀬が浜辺にいた。
ひとりで流木を集めていた。
「何してるんですか」
澪が聞くと、七瀬は振り返って、屈託なく笑った。
「窯作ろうと思って。本物の火で、パン焼きたくて」
彼は砂の上に石を並べ、流木を組んでいた。子どものような作業だった。けれど手つきは真剣だった。
澪はなぜか隣にしゃがんだ。
手伝うつもりはなかった。なのに気づけば流木を拾っていた。湿った木のざらりとした感触。潮の匂い。指の間に入る砂の細かさ。ひとつひとつがやけに鮮明だった。任務のために研ぎ澄ました感覚が、まったく別のもののために働いていた。
火がついたのは日が沈むころだった。
小さな頼りない炎だった。けれど本物だった。電気仕掛けの揺れる影だけの偽物ではない。七瀬がそこにちぎった生地をのせた。香ばしい匂いが煙と一緒に立ちのぼった。
火がなかなかつかなかった。
湿った流木は、煙ばかり出して、なかなか燃えない。七瀬は根気よく火種を育てた。息を吹きかけ小枝をくべまた吹きかける。澪はその横で火が育つのをただ見ていた。
やがてちろちろと小さな炎が立った。頼りないけれど本物の火だった。電気仕掛けの揺れる影だけの偽物ではない。
炎は少しずつ大きくなった。ふたりの顔を赤く照らした。
「焼けた」
七瀬が、まだ熱いそれを半分に割って、澪に差し出した。
澪は受け取った。指先が熱かった。ひと口かじると、外は香ばしく、中はやわらかかった。塩気と小麦の甘み。素朴で飾りのない味だった。
気づけば澪は笑っていた。
日が水平線に触れていた。
空が橙から藍へとゆっくり変わっていく。火の明かりが七瀬の横顔を赤く縁取っていた。澪は焼きたてのパンをもうひと口かじった。外は香ばしく中はやわらかい。塩気が舌の上でゆっくりほどけた。
誰も見ていなかった。カメラは遠くスタッフもいない。この浜辺だけが、二十四時間の監視から、ぽつんとこぼれ落ちていた。澪はふと肩の力が抜けるのを感じた。何週間ぶりかの、演じていない自分が、そこにいた。
演技ではなかった。台本にも計算にもない笑みだった。生まれて何度目かの本物の笑顔だった。それがどんな顔なのか、彼女は自分で知らなかった。
七瀬がその顔を見てふと黙った。
「澪さん、今の顔」
「え」
「すごく、いい顔でした」
澪は、慌てて表情を引っ込めようとした。だが間に合わなかった。一度こぼれたものは戻らなかった。
しばらくふたりは何も言わずに炎を見ていた。波の音が規則正しく寄せては返した。七瀬は膝を抱えて火を見ていた。澪も隣で同じようにしていた。
ねえと七瀬がぽつりと言った。澪さんはなんでこの番組に来たんですか。
澪は用意してあった答えを口にしようとした。素敵な出会いを探して、という、台本どおりの答えを。だがなぜかそれが喉につかえた。本当のことは言えない。嘘も言いたくない。彼女は結局はぐらかした。なんとなくかな。七瀬は、そっか、と言って、それ以上は聞かなかった。
火の粉がひとつ夜空へ昇っていった。
火がぱちりと爆ぜた。
火を囲む時間はゆっくりと過ぎた。
澪は、自分の感覚が、おかしなふうに研ぎ澄まされているのに気づいた。任務のために鍛えた知覚が、まったく別のもののために働いていた。流木のはぜる音。煙の匂い。指先に残る湿った木の感触。焼けていく生地のふくらむ気配。そのひとつひとつがやけに鮮明だった。
七瀬は火加減を見ながら、ほとんど喋らなかった。喋らないのに、その横顔は、どこか満ち足りていた。誰のためでもなく、強いて言えば、まだ顔も知らない、いつかの食べ手のために、彼は火を守っていた。
澪はその姿を長く見ていた。羨ましい、という言葉が、胸の奥でちいさく灯った。彼女はそれを認めたくなかった。羨望は弱さだ。任務の邪魔になる。けれど火の前では、その理屈が、うまく力を持たなかった。
その夜、澪はマットレスの縫い目を解き、本命の端末を取り出した。定時連絡の時刻だった。司令カラスからの点滅が闇に浮かんだ。
短い問いだった。
「標的の身辺再確認した。報告の前に一つ訊く。お前、感情移入していないな?」
澪は、画面を見つめた。
返すべき答えは決まっていた。していないの一語だ。それが正しい。それが任務だ。
だが指が動かなかった。
浜辺で、本物の火を囲んで、本物のパンを食べて、本物の顔で笑った数時間が、まぶたの裏で揺れていた。
澪は、生まれて初めて、司令への返信を、ためらった。




