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スパイが恋愛リアリティショーに参加する物語  作者: もしものべりすと


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第11章「監視者の影」

結局、澪は司令への返信に「異常なし」とだけ打った。


 嘘だった。異常は自分の内側で起きていた。だがそれを報告する言葉を、彼女は持たなかった。端末を縫い目に戻し、糸を結ぶ指が、いつもより遅かった。


 その夜島を嵐が襲った。


 強い風がヴィラの窓を叩きつけた。撮影は一時中断され、参加者は、広間にひとつ所に集められた。停電に備えて蝋燭が灯された。


 澪は七瀬の隣に座ることになった。避けたかったのに、桐谷が、さりげなく、そう仕向けたのだ。


 雨の音だけが満ちていた。七瀬はふと自分の上着を澪の肩にかけた。寒そうだったからとだけ言って。


 その重みがあたたかかった。澪は、礼を言いそびれたまま、長いあいだ、その温もりの中にいた。任務のことも、監視者のことも、その嵐の夜だけは、遠かった。


 翌朝から澪は意識して七瀬を避けた。


 近づきすぎた。運営担当官が観察対象に心を動かされるのは、銃を持つ手が震えるのと同じだ。致命的だ。彼女は自分に距離を命じた。命じて守れない自分に苛立った。


 だが苛立っている場合ではなかった。


 その日澪はもう一つの異変に気づいた。


 屋敷には、参加者でもスタッフでもない緊張が、薄く流れていた。誰かが自分を見ている。カメラ越しではない。生身の目が、特定の意図を持って、自分の動きを拾っている。澪はその感覚を皮膚で知っていた。尾行されているときの、首の後ろがざわつく感覚だ。


 彼女は相手を探りはじめた。


 まず疑ったのは撮影スタッフだった。番組には常時十数人のスタッフが出入りする。カメラ音声進行メイク。その誰かがただの裏方ではないかもしれない。澪は彼らの動線を、参加者のふりをしながら記録した。


 一人引っかかった。


 メイク担当の真壁という男だった。物腰は柔らかい。仕事も丁寧だ。だが彼の視線の配り方に訓練の痕があった。参加者にメイクを施しながら、その手元ではなく、部屋全体の出入りを見ている。誰がいつどこへ動いたか。背後で交わされる会話の断片を、聞き流すふりで拾っている。


 澪自身が、初対面の部屋でやることと、同じだった。


 確かめる必要があった。澪は、わざと真壁の前で、意味のない小芝居を打った。落とし物を拾うふりをして、給湯室の裏へ消える。死角へ。普通のスタッフなら気にも留めない動きだ。


 真壁の視線がほんの一瞬彼女を追った。


 決定的だった。あれは対象の不審な動きに反応する目だ。真壁はただのメイク係ではない。この島に、自分を監視するために置かれた人間だ。誰の手の者か。番組のか。スポンサーのか。あるいは鵜飼と同じ勢力か。


 その日から澪は真壁を注意深く観察した。


 メイクの時間。撮影の合間。食事の配膳。彼がいつどこで誰の近くにいるか。一日の動きを頭の中で地図にしていく。標的を追うときと同じ手つきだった。


 すると規則性が見えてきた。真壁は、参加者が大きく動く時刻に、必ず、近くにいた。誰かが誰かと密談しそうな場面で、さりげなく、その圏内に入る。


 偶然ではない。配置だ。誰かが彼をそう配置している。


 澪の確信は日ごとに固くなっていった。この島には自分を見張る目が確かにある。問題はそれが誰の目かだった。


 その夜確かめるべきことがもう一つ起きた。


 その夜澪はなかなか寝つけなかった。


 屋敷のどこかで、自分とは違う何者かが、同じように息を殺している気がした。気配を消す者には、別の、気配を消す者の存在がわかる。皮膚がざわつく。首の後ろが冷える。彼女はベッドの中でただ天井を見ていた。カメラの赤い光が規則正しく明滅していた。


 澪が窓辺の花を確認すると一輪足りなかった。


 昨日まで五本だった。今朝も五本だった。なのに今四本になっている。抜き取られた茎の切り口は、鋭く、迷いがなかった。素人の手ではない。誰かが、彼女の合図の意味を理解した上で、一本だけ抜いた。


 それはメッセージだった。


 お前の合図をこちらは読んでいる。そういう声のない宣告だった。


 嵐は夜明け前に去っていた。


 澪が目を覚ますと、上着が、まだ肩にかかっていた。七瀬の上着だった。返しそびれたまま眠ってしまったらしい。


 布地からほのかにパンの匂いがした。小麦と酵母のあのあたたかい匂い。澪はそれをしばらく嗅いでいた。


 返さなければと思った。


 なのに手放したくないとも思った。


 その矛盾に彼女は戸惑った。任務のために生きてきた人間に、手放したくないものなど、あってはならない。彼女は上着をきちんと畳んだ。畳んでも匂いは消えなかった。


 澪は抜かれた一輪のことを長く見つめた。


 彼女がこの島で使ってきた言語を、同じ言語で返してくる者がいる。デッド・ドロップを設え、花で合図を送る彼女のやり方を、相手は知っている。知った上でわざと触れて見せた。


 猜疑心が胸の奥で冷たく広がった。


 澪は人を信じない訓練を受けてきた。誰も心から信用しない。それが身を守ってきた。今その猜疑心が全方位へ刃を向けていた。鵜飼。真壁。桐谷。番組。スポンサー。誰が敵で誰が味方か。わからない。わからないことの不快さが皮膚の下を這った。


 猜疑心はいったん解き放つと際限がなかった。


 澪は屋敷の全員を、もう一度、疑いの目で測り直した。鵜飼。真壁。桐谷。よく笑う男も沈黙に強い女も。誰が自分の合図を読んだのか。誰がスーツケースに触れたのか。誰が花を一輪抜いたのか。確証はなかった。確証がないまま疑いだけが胸の中で増殖した。


 人を疑うのは彼女の職能だった。同時に職業病でもあった。長く運営担当官をやっていると、誰のことも、心から信じられなくなる。配偶者も友人も自分自身さえ。澪には配偶者も友人もいなかった。疑う相手すらいない孤独の中で、彼女は、ただ疑う技術だけを磨いてきた。


 その刃が今全方位へ向いていた。


 唯一刃を向けたくない相手がひとりだけいた。


 七瀬結。


 彼にだけは疑いを向けたくない自分がいた。そして、それを向けられない自分こそが、いちばん危険なのだと、澪は知っていた。


 その夜澪は自分の部屋に小さな罠を仕掛けた。


 扉の蝶番に髪の毛を一本唾で貼りつける。誰かが扉を開ければ髪は切れるか落ちる。古典的だが確実な方法だった。スーツケースの引き手にも、目に見えない印をつけた。引き出しの中身の配置も頭に刻んだ。


 これで誰かが部屋に侵入すれば必ずわかる。


 仕掛けを終えて澪はベッドに横たわった。守るためのささやかな罠。だが、罠を仕掛けねば眠れないという事実そのものが、彼女の立っている場所の危うさを語っていた。気配を消すことに長けた自分が、この島では、ひとときも気を抜けずにいた。


 部屋の隅で、カメラの赤い光が、呼吸のように明滅していた。


 眠っている間も撮られている。けれど今は、撮られているより恐ろしいものがあった。


 撮っているのが誰なのかわからないことだ。

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