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スパイが恋愛リアリティショーに参加する物語  作者: もしものべりすと


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第12章「本当の標的」

包囲が狭まる感覚の中で、澪は任務を一歩進めた。


 鵜飼の缶に残された名前と数字を、外の協力者が洗いはじめていた。澪は告白部屋を通じて断片を流し続けた。やがて、缶の数字の一部が、ある古い住所と一致したという返答が来た。本土の小さな町。とうに閉じた一軒の店の住所だった。


 その店が何だったのか。返答にはまだなかった。


 澪は鵜飼との距離をさらに詰めた。カップリングで、ついに彼との二度目のディナーを引き当てた。今度こそ踏み込む。彼女は一夜をかけて、鵜飼の防御の継ぎ目を探した。


 そしてひとつ引き出した。


 酔ったふりをした澪が、わざと「あの店、もうないんですってね」と、当てずっぽうの一言を落とした。挑発だ。鵜飼の手がグラスの上で半秒止まった。


「……よく知ってますね」


 その半秒が答えだった。鵜飼はあの閉じた店を知っている。彼の任務もあの店につながっている。澪と鵜飼は、同じ一点を、別々の方向から狙っていた。


 勝利の手応えがあった。任務は前進した。


 その夜、定時連絡の時刻に、澪はマットレスの端末を取り出した。報告のためだった。あの店の住所。鵜飼の反応。すべていい報告になるはずだった。


 画面に司令カラスからの点滅が浮かんだ。


 澪が報告を打ち込む前に、向こうから先に文字が流れてきた。長い点滅だった。いつもの短い指示ではなかった。


 澪はその文を読んだ。


 読んで息を止めた。


「標的を確定した。お前が追っていた鵜飼は競合だ。別の勢力の運営担当官。同じものを狙っている。本当の標的は、最初から別にいる」


 澪の指が画面の上で固まった。


 点滅が続いた。


「閉じた店――それは、十数年前まで営業していた小さなパン屋だ。当時、ある情報網のカットアウトとして使われていた。表の顔はただのパン屋。だが、出入りする客に紛れて、情報の受け渡しが行われていた。店主は、自分が中継地点にされていることを、最後まで知らなかった」


 カットアウト。


 運営担当官と協力者の直接接触を避けるために、間に立つ仲介者。もしカットアウトが捕まっても、本体の正体は守られる。たいていは、自分が使われていることすら知らされない。


 澪の頭の中で火傷の痕のある手が浮かんだ。


 まさかと思った。


 澪は画面の文字をもう一度読み返した。


 本当の標的は最初から別にいる。その一文が闇の中で冷たく光っていた。彼女の頭の中で、ひとつの可能性が、形をとりはじめた。認めたくない可能性だった。打ち消そうとするほど、それは、輪郭をはっきりさせていった。


 まさか。


 彼女は火傷の痕のある手を思い浮かべた。見返りのないパンを差し出すあの手を。


 次の点滅がその「まさか」を確定に変えた。


「店主の息子が、当時の記録を、知らずに受け継いでいる可能性が高い。本人に自覚はない。だがその中にこちらが必要とするものがある。スポンサーも、競合も、それを狙っている」


 最後の一行が、闇に浮かんだ。


「本当の標的の名は七瀬結。回収せよ」


 澪は端末を握ったまま動けなかった。


 本当の標的の名は七瀬結。回収せよ。


 その一行を澪は何度も読み返した。読み返すたびに、言葉の意味が、遅れて、体に届いた。指先が冷たくなり、喉の奥が、いつもの冷たさで満ちた。


 彼女はこれまで数えきれない標的を見てきた。誰を相手にしても手順は同じだった。近づき信じさせ奪う。相手が誰であろうと関係なかった。標的は標的だった。


 だが、今度の標的は、彼女に本物の顔で笑わせた男だった。浜辺で本物の火を囲み、見返りのないパンを差し出した男だった。彼女のまばたきが止まるのを見抜き、それでも責めなかった男だった。


 窓の外で海鳴りがした。低く絶え間ない音だった。


 まばたきが止まっていた。誰も見ていない密室で、彼女のまぶたは、動きを忘れていた。


 愛しはじめた相手が任務の標的だった。


 いや順序が逆だ。彼女は標的を愛しはじめていた。最初から彼が標的だったのだ。ただそれを知らずに近づき、惹かれ、本物の顔で笑ってしまった。


 翌朝澪はいつもどおりに振る舞った。


 朝のキッチンで、七瀬は、いつもどおり、パンを焼いていた。火傷の痕のある手で生地を畳んでいる。鼻歌も歌わずただ淡々と満ち足りた様子で。


 澪はその背中を見ていた。


 昨夜知ってしまった。この男が自分の標的だと。この男の持つ帳面を奪い、彼を焼くのが、自分の任務だと。


 なのに七瀬は何も知らない。澪に、焼きたてのパンを半分に割って、差し出してくる。きょうのはよく膨らんだんですよと。


 澪はそれを受け取った。あたたかかった。


 その温もりが今日は刃のように感じられた。


 任務を遂げるとは、この島で唯一彼女を見つけてくれた男を欺き、利用し、焼くことだった。


 業界では、正体が露見し、使い物にならなくなることを、バーンと呼ぶ。焼かれるという意味だ。


 澪は、自分の手で、七瀬結を焼かなければならない。


 澪は、端末を置き、闇の中で、長いあいだ座っていた。


 屋敷は寝静まっていた。この壁のいくつか向こうで七瀬は眠っている。何も知らずに。自分が誰かに追われていることも、自分の持つ帳面が何を意味するかも。そして、隣で笑っていた女が、その帳面を奪うために送り込まれたことも。


 澪は立ち上がり窓辺に寄った。月のない夜だった。海が黒くうねっていた。


 彼女はこれまで、標的にこんな感情を持ったことが、なかった。標的は標的だった。情報の入れ物だった。だが今その入れ物の中にひとりの人間がいた。火傷の痕のある手で、見返りのないパンを焼く、ひとりの男が。彼女はその男を焼かねばならなかった。


 窓辺の花瓶では、四本の花が、闇の中で黒く沈んでいた。


 順調を意味していた合図が、今は、まるで別の意味に見えた。


 彼女は長いあいだその花を見ていた。

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