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スパイが恋愛リアリティショーに参加する物語  作者: もしものべりすと


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第13章「焼くべき相手」

朝が来ても、世界は昨日のままだった。海は光り参加者は笑いカメラは回っていた。変わったのは澪の見る目だけだった。


 七瀬結を見るたびに胸の奥で鈍い音がした。


 彼女は任務を頭で組み立て直そうとした。標的は七瀬。回収すべきは、彼が知らずに受け継いだ、父親の記録。手順は決まっている。近づき信頼させ隙を作り奪う。何百回もやってきたことだ。相手が誰であろうとやり方は変わらない。


 変わらないはずだった。


 その日澪は七瀬に近づいた。任務として。彼の過去をもう一度引き出すために。


「お父さんのパン屋さん、どんなお店だったんですか」


 七瀬は嬉しそうに話しはじめた。隠すものなどないからだ。小さな店だった。常連が多かった。父は無口で手だけが雄弁だった。澪は相づちを打ちながら、針の先で核心を探った。記録。帳面。何か受け継いだもの。


「ああ、レシピ帳なら、持ってきてます」


 七瀬はこともなげに言った。


 澪の鼓動がひとつ跳ねた。


「親父の手書きのやつで。これだけはどこ行くにも持ってくんです。これ見ながら焼かないと、どうも、うまくいかなくて」


 彼は部屋から、古い帳面を持ってきた。表紙は擦り切れ角は丸い。粉と油の染みが年輪のように重なっていた。七瀬はそれを宝物のように両手で渡してきた。


 澪は受け取った。


 ページをめくる。父親の字で配合や手順が並んでいた。だがその余白に別の筆跡の数字が散っていた。日付のようで日付ではない。分量のようで分量ではない。配列に規則があった。


 澪の背筋が冷えた。


 これは帳簿だ。


 パンのレシピに偽装された情報網の記録。誰がいつ何を受け渡したか。名前と接触点が、料理の言葉に置き換えられて、ここに眠っている。十数年前、店に出入りした客に紛れて行われた、声のない取引の、すべての痕跡。


 そして七瀬は、それをただのレシピだと信じている。


 毎朝この帳面を開き、父の字をなぞり、パンを焼いてきた。自分が触れているものが何なのか、まったく知らずに。


 澪は帳面を両手で持っていた。


 古い表紙の擦り切れた角。粉と油の染みが年輪のように重なっている。この一冊が七瀬の父の人生そのものだった。そして、その余白に書かれた数字の羅列が、十数年前の、ある情報網の痕跡だった。澪の指はその重さを量っていた。紙の重さではない。人ひとりの運命の重さだった。


「その、端っこの数字、なんなんでしょうね」


 澪が平静を装って聞いた。


「ああそれ。昔から謎で。親父の覚え書きだと思うんですけど、意味わかんなくて。でも、消すのもなんか嫌で、そのままにしてます」


 七瀬は笑った。


 彼は何も知らなかった。本当に何も。


 ページをめくる手が止まった。


 パンのレシピに偽装された情報網の帳簿。誰がいつ何を受け渡したか。名前と接触点が、料理の言葉に置き換えられて、ここに眠っていた。十数年前、小さな店に出入りした客に紛れて行われた、声のない取引の痕跡。澪はその配列の規則を見抜いてしまった。見抜けてしまう自分の目を、このときばかりは呪った。


 七瀬は帳面のページを愛おしそうにめくった。


 これ、親父がいちばん得意だったパンのとこです、と彼は言った。日曜の朝だけ焼く特別なやつで。客がそれを目当てに遠くから来てたんですよ。


 彼の指が配合の数字をなぞった。


 親父は無口な人で。でも、このページだけは、何度も書き直した跡がある。きっと、うまく焼けるたびに、直してたんだと思います。誰かにもっとうまいのを食べてほしくて。


 澪はその横顔を見ていた。彼の語る父の思い出はあたたかかった。そして、そのあたたかい思い出の余白に、奪うべき帳簿が眠っていた。


 七瀬はそれをただのレシピだと信じている。毎朝この帳面を開き、父の字をなぞり、パンを焼いてきた。 七瀬はそれをただのレシピだと信じている。毎朝この帳面を開き、父の字をなぞり、パンを焼いてきた。自分が触れているものが何なのか、まったく知らずに。その無垢が澪の胸を締めつけた。


 澪は帳面を閉じた。指がわずかに震えた。


 これを奪えば任務は終わる。コピーを取り外へ流せばいい。彼が眠っている数分でできる。技術的には造作もないことだ。


 だがそれをすれば七瀬は焼かれる。


 情報網の記録を持っていた男として、追う者すべての目が彼に向く。スポンサーも競合も彼を放っておかない。ただパンを焼いて生きてきただけの男が、知らぬ間に、危険な盤面の中央に置かれる。澪が置く。


「大事なものなのに、貸してくれてありがとう」


 澪は帳面を七瀬に返した。


 返してしまってから、自分のしたことに気づいた。今奪う好機だった。なのに返した。任務を後回しにした。


 七瀬は帳面を受け取ってまた両手で抱えた。


「澪さんになら、見せてもいいかなって思って」


 その一言が、澪の胸を深く貫いた。


 彼は信じていた。彼女を。世界中で、たったひとり、彼女を信じた男が、自分の手で奪われ、焼かれる運命の、まさにその記録を、彼女に差し出していた。


 その夜澪は眠れなかった。


 七瀬の部屋は廊下のいくつか先だった。今行けば帳面を書き写せる。彼は何も知らずに眠っている。任務はそれで終わる。


 澪はベッドを出た。廊下を音もなく歩いた。七瀬の部屋の扉の前で足を止めた。


 ノブに手をかけた。


 かけたまま長いあいだ動けなかった。やがて彼女は手を離した。扉を開けずに自分の部屋へ引き返した。


 なぜできなかったのか。澪はその答えをもう知っていた。知っていて認めたくなかった。


 澪は初めて、自分の仕事を吐き気とともに思った。

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