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スパイが恋愛リアリティショーに参加する物語  作者: もしものべりすと


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第22章「技術の反転」

最終回の生放送は、翌日の夜に迫っていた。


 常世はその夜を狙っているはずだった。全国が番組を見る最大の夜。混乱に紛れて七瀬と帳面を処理する。澪はそう読んだ。ならばこちらもその夜に動く。


 計画は三つの柱でできていた。


 ひとつめは、七瀬を安全な場所へ逃がす道筋だった。澪は嘘のために磨いた技術を逆向きに使った。SDR――監視検知ルート。本来は、尾行を確認するための遠回りの移動術だ。澪はそれを応用し、屋敷から桟橋まで、常世の監視の死角だけをつないだ一本の道を、設計した。その道を通れば、誰にも見られずに島を出られる。


 その道筋を七瀬に渡さねばならなかった。だが彼は今澪と口をきかない。直接は渡せない。


 澪はブラシ・パスを使うことにした。


 人混みの中で、すれ違いざまに、一瞬で物を受け渡す技術だ。視線も合わせず、足も止めず、ただ肩がふれる刹那に、手のひらから手のひらへ。熟練の監視チームでもその瞬間を見逃す。澪は、リハーサルの人混みを利用し、七瀬とすれ違いざまに、折り畳んだ地図を、彼の手に滑り込ませた。


 七瀬は足を止めなかった。だが握り込んだ。受け取ったという合図だった。


 ブラシ・パスは一度きりの技術だった。


 二度は使えない。同じ相手と、同じ方法で、二度すれ違えば、監視の目は、必ず、その不自然さに気づく。だから、渡すものは、一度で、すべて渡しきらねばならない。澪は、折り畳んだ地図に、必要な情報を、極限まで凝縮していた。逃走路。時刻。合図。七瀬が、それを読み解けるかどうかに、すべてがかかっていた。


 彼女は彼の理解を信じるしかなかった。信じるという行為が、これほど心もとないものだとは、知らなかった。任務で誰かを信じたことなどなかったからだ。


 ふたつめの柱は追う者を欺く罠だった。


 澪は偽のレジェンドを一つでっち上げた。帳面が、すでに本土の別の場所へ移されたという、嘘の痕跡だ。デッド・ドロップに偽の紙片を仕込み、常世の手の者が回収するように仕向けた。彼らが偽の道を追えば、そのぶん、七瀬から目が逸れる。同じ罠を機関にも仕掛けた。両方を別々の方向へ走らせる。


 ふたつめの柱までの準備に、澪は、味方の手を借りた。


 桐谷は、本土の伝手を使い、ある経路を用意してくれた。生放送の内容を番組の管理の外へ流す経路だ。よく笑う男は、当日の参加者の動きを、澪の合図で混乱させる役を引き受けた。鵜飼は、相変わらず、自分の依頼主を明かさなかったが、常世の警備の配置について、いくつか、有益な情報を寄越した。


 かつての澪なら、これだけの人数に、計画を打ち明けることは、絶対にしなかった。情報は知る者が少ないほど安全だ。それが鉄則だった。だが今回はひとりでは何もできなかった。彼女は初めて仲間を信じることにした。信じるしかなかった。そして、信じるというのは、思っていたより、ずっと心強いことだった。


 みっつめの柱は――生放送そのものだった。


 澪は、最後の一手を、まだ誰にも明かしていなかった。それは、最も危険で、最も後戻りのできない手だった。成功すれば七瀬は救われる。失敗すれば澪も七瀬も消される。


 決行の前夜澪は味方をひそかに集めた。


 告白部屋の死角。番組が唯一カメラを置いていない場所だ。そこに、桐谷と、よく笑う男が、順に滑り込んできた。


 澪は手順をもう一度確かめた。誰がいつ何をするか。混乱を起こす合図。逃走路の確保。生放送で何が起きるか。


 桐谷は青ざめていた。失敗したら、わたしたちも、ただじゃ済まないのよね、と彼女は言った。


 澪はうなずいた。隠さなかった。そのとおりですと。だから無理にとは言いません。降りるなら今のうちに。


 桐谷はしばらく黙ってそれから笑った。冗談。乗りかかった船よ。あの会社の鼻を明かせるなら安いもの。


 よく笑う男も力強くうなずいた。


 澪は、ふたりの顔を見て、胸の奥が、熱くなるのを感じた。誰かに本当のことを話しその上で手を借りる。それは生まれて初めての経験だった。


 すべての準備を終えた夜、澪は、ひとり、屋敷の屋上に立った。


 星が多かった。本土では決して見えない数の星だった。


 彼女は欄干に手をかけ暗い海を見ていた。


 明日の夜すべてが決まる。三つの柱は組み上がっていた。逃走路。偽の痕跡。そして生放送そのものを使った最後の一手。成功すれば七瀬は救われる。失敗すればふたりとも消される。澪は自分の心拍がいつもより速いのを感じた。任務の緊張ではなかった。誰かを守ろうとする者の緊張だった。生まれて初めての種類の緊張だった。


 背後で足音がした。消された足音。澪は振り返らずに言った。


「真壁さん」


 メイク担当を装った監視者が、闇の中に立っていた。


「気づいていたか」


 真壁の声は静かだった。


「あんたの計画はだいたい読めている。生放送で何かをやるつもりだろう。だが無駄だ。羽鳥は放送に二十秒の遅延を仕込んでいる。あんたが余計なことを口走れば、その二十秒で、すべて切られる」


 澪の背筋が、冷えた。


 二十秒の遅延。生放送に見せかけて実際は二十秒遅れて流す。問題のある映像や音声は、その二十秒の間に、消される。澪の最後の一手はその遅延の壁に阻まれる。


 読まれていた。最後の柱を相手はすでに見抜いていた。


 真壁の声には敵意がなかった。むしろどこか忠告に近い響きがあった。彼もまた命じられてここにいる。澪と立場がよく似ていた。盤面の上で、互いに駒として動かされる者同士の、奇妙な連帯のようなものが、一瞬、ふたりの間に流れた。


 だが連帯は停戦ではなかった。真壁は澪の最後の一手をすでに読んでいた。二十秒の遅延。生放送に見せかけた二十秒遅れの放送。問題のある映像や音声はその隙間で消される。澪の切り札はその壁の前で無力に見えた。


 真壁は闇に溶けながら言い残した。


「手を引け。それがあんたのためだ」


 澪は星空を見上げた。


 二十秒。たった二十秒の壁が、彼女と、彼女が守りたい男との間に、立ちはだかっていた。

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